韓国人は定期的に竹島(独島)の領有を主張してきます。
ここでは論破済みの主張を簡潔にまとめました。
初めての方は、まず
基礎知識を読むことをお勧めいたします。
<丶`∀´>独島は韓国の領土nida
( ´∀`)韓国は于山国の于山島は独島と主張するが
- 1412年の『太宗実録』には鬱陵島周辺の島として流山国島が記載されている。
- その中で、白加勿らは「11戸60人余りが、武陵島(鬱陵島)から流山国島(于山島)に移った。流山国島(于山島)は、東西と南北がそれぞれ約16km、周囲が約96kmで豆や麦が採れる」と観察使に証言している。
- 李氏朝鮮では1403年から鬱陵島の空島政策を実施していたため、白加勿らはその罪を逃れるためにこの嘘の島を作ってしまったと考えられる。
- この島の大きさは後の多くの地図に描かれている于山島と似ていることから、地図は彼の証言を元に描かれていることが容易に推測できる。
- また証言の「流山」は過去にも呼ばれていた「于山」の音号から転訛したものと考えられる。
- 1417年の「太宗実録」には「于山島には86人が住み、15戸の家があり、畑があった」と書いております。
- 鬱陵島の空島政策以後、税や兵役を逃れる者が密かに住み着いていたが、鬱陵島島の周辺を知る者は限られ、18世紀後半からの本格的な調査が入るまで架空の于山島が描かれたのである。
- 当時の竹島(独島)には、絶対に人が住めません。家も建てられないし、畑を作る事も不可能です。
- 1451年の「高麗史地理志」には「于山国とは鬱陵島の事だ」と書いてあります。
18世紀後半からの本格的な調査が入るまで于山島は架空の島で有った。
- 1834年の青邱図(ソウル大学 奎章閣蔵)に鬱陵島が描かれており、その東に隣接して于山という島が描かれている。この地図には、目盛りが振られており、他の多くの地図同様大きさや形状、位置関係から現在の竹嶼と比定される。一目盛り十里(約4km)とされる目盛りが振られていることから、韓国の主張する独島(竹島)を意図的に鬱陵島近くに描いた島ではないことが分かる。
- 18世紀後半以降は鬱陵島の東に隣接して描かれるようになり、しだいに北東に隣接する現在の竹嶼を于山島として比較的正確に描いている。
本格調査が始まり架空の島は存在せず、竹嶼を于山島とした
- 1145年に編纂された「三国史記」よると512年に于山国は朝鮮の新羅に服属している。後の文献にある于山島はこの于山国の一部であり、その于山島は独島である。つまり独島は512年から韓国の領土である。 参考資料(ハングル)
検証結果
- 「三国史記」に「512年に新羅が“于山国”を服属させた」と書いてあるだけです。
- 1451年の「高麗史地理志」には「于山国とは鬱陵島の事だ」と書いてあります。
- つまり「三国史記」には「512年に鬱陵島が新羅が領土になった」と書いてあるのです。
- また1417年の「太宗実録」には「于山島には86人が住み、15戸の家があり、畑があった」と書いてあります。
- 当時、独島(竹島)には絶対に人は住めません。家も建てられないし、畑を作る事も不可能です。
- 1737年フランスのダングビルが製作した地図には当時中国式発音で鬱陵島(Fan-ling-tao)と独島(Tchian-chan-tao)が東海岸すぐ側に明確に表示されている参考資料(ハングル)
検証結果
- 論外。
- 独島が鬱陵島の西側に有る。独島はいつの間にか移動したのか(笑)
1785年に成稿した、日本の「三国通覧輿地路程全図」に竹嶋とその附属の于山島が描かれており、朝鮮と同じ色で彩色され朝鮮領と明記されている。
参考資料(ハングル)
検証結果
- 当時、既にこの地図よりも遙かに正確な経緯度線入りの「日本輿地路程全図」が普及しており、竹島(現在の鬱陵島)と松島(現在の竹島)が描かれている。
- 「三国通覧輿地路程全図」に描かれている竹嶋(現在の鬱陵島)の北東に、南北に長い小さな付属島があるが、島の大きさや形状、位置関係からいって、これは現在の竹嶼である。
- 「三国通覧輿地路程全図」に松島(現在の竹島)は描かれていない。
1785年「三国通覧輿地路程全図」
1779年「日本輿地路程全図」長久保赤水
最終更新:2008年09月25日 23:34