『やりなおさないか 君らしさのままで』p70より抜粋

「被教育者の視点から」 第23期卒業生・長野 義家弘介
 私の頭には、髪をかき上げればはっきりとわかる傷痕がある。私の体に残した父の署名である。
私に向けて投げられた茶碗は、私に消えることのない傷痕と不信感を与えた。
 父と、私を産んだ母は私が生まれてすぐ離婚した。だから私は産みの母の慈愛を知らない。離
婚の原因も知らない。ただ私が知っていたのは、小さいころから父の憎しみの対象になっていた
ことである。多少大きくなってからの私は、自分を主張するために、父に向かって生意気な言葉
を吐いたり皮肉を言ったりした。しかし、そんな私の稚拙な企ては、「被害妄想」「わがまま」
「甘え」という三つの言葉で片付けられた。
 父が自分の言いつけに従えと命令したとき、姉弟はただちに従った。しかし私は従わず、自ら
災難を招いた。父を憎むようになったので私が素直でなくなったのか、私が素直でないから父が
憎んだのか、どちらかはわからない。ただ確かなことは、初めて父に叩かれた幼いころ、私は叩
き返すこともできなかったし、依怙地でもなかった。
 強くなりたかった。すべてを跳ね返す力がほしかった。
 私の生家には祖父母が同居していた。そして私は幸運にも、たくさんの愛を二人にもらった。
父や母に激しく叱られた夜は、父母の目を盗んでは祖父母の寝室にもぐりこみ、「子どものいな
い親戚のおばさんのところに養子に出してほしい」と涙ながらに懇願したことを覚えている。そ
してそのたびに、「お前がいなくなったら私たちは淋しい」と言ってくれる祖父母の言葉をかみ
しめるように眠った夜は、朝が来て、だれにも見つからぬようにそっと祖父母の布団から抜け出
すまでの束の間ではあったが、私に家庭における唯一の安らぎを与えてくれた。高校から「進路
変更処分」を言い渡され、路頭に迷っていたときでさえ、「お前が大学を卒業するまで頑張って
生きている」と、私の未来に期待してくれた。そんな祖父母の存在が、唯一私の良心を支え、私
を正常な人間にとどめてくれた。
 中学校に入るころには、私はすでに「不良」と定義づけされる存在となっていた。小学校の頃
からの、「息子は祖父母に甘やかされて育ってしまい、わがままで、反抗的で、すぐに自分を悲
劇のヒーローにしたがる」という、第三者への父の執拗な見解の反復により、それは完成された。
むろん、私の父から授かった暴力的側面もあってだろうが。
 家庭における私の居場所はほとんどなかった。
 私はすでに体力的な面では父のそれと同等、あるいは父を凌駕していたので、幼いころのよう
に一方的に虐げられることを拒否し、抗うようになった。しかし、そのことはさらに私自身を追
い込む結果となって波及していった。
 父は、私が叩き返すと、あいだに第三者を介入させるようになったのだ。その第三者とは家族
であり、親戚であり、近所の人々であった。父と私の取っ組み合いが始まると、家族は皆でまる
で任侠映画で子分が親分を守るシーンのように私に襲い掛かり、足りないとなると親戚の人が、
またあるときは近所の方々が、私を封じ込めた。そして、無傷の父の足元に、私は顔を腫らせて
横たわるのだ。そのときの私の言い分は、”偉大なる”父のまえで力を失う。理由のいかんを問
わずに、である。
 そんなことが続くと、親戚や近所の方々はだれも私と口をきいてくれなくなった。自ら「不良
」などと呼ばれ、人から避けられたいと自ら思う者がどれだけいるというのか。「不良」という
現象のはじまりは、《能動的企ての結果》でなく、《受動的現象の認知》であると私は考えてい
る。皆が忌み嫌う「不良」をつくっているのは、ほかでもない「親」であり「教師」であり、「
あなた」であり「私」なのだ。
 地元の公立高校に入学して十ヶ月がたとうとしていたころ、私は教師の権力を痛感する事件の
当事者となった。当時私は、ある女生徒と交際していた。彼女はとてもまじめな人で、一緒にい
るとなぜか落ち着いた。私も人並みに青春を謳歌していたのだ。
 そんなある日、担任はこの女性を呼び出し、他の教師や生徒のいるまえでこう追求した。
「お前のようなまじめな奴が、なぜあんな奴と付き合うのだ。不純異性交遊が発覚したら、お前
の希望する短大への推薦はダメになる」
 翌日、彼女は学校を休み、その事実を知った私は教師と大衝突を起こし、無期停学を言い渡さ
れた。反省などできるはずもなかった。ただこのとき知ったのは、学校は教師によって運営され
る非人間的機関であるということだった。
 停学が明け、こんな私も二年生に進級した。当時の私の高校は、二年次から英語と数学は能力
別クラス編成をとっていた。しかし、進学者用のクラスを、私が選択することは許可されなかっ
た。私に許されたクラスは、進学を希望しないあるクラスだけであった。厄介者の生徒を、半強
制的に一つのクラスに集めたのだ。私は学年で五百人中百番弱くらいの成績をおさめていたし、
進学したい気持ちがあったのに…。
 本当の意味での落伍者になったと感じたからなのか、瑕疵のあるクラス編成を許せないと思っ
たからなのか、いまでもよくわからないが私の苛立ちは頂点を極め、それは暴力というもっとも
不幸なかたちとなって表出した。
 二年生に進級して一ヶ月もたたないうちに、私は暴力により自宅待機を言い渡された。今度は
停学でなく、自宅待機である。私は、一ヶ月後学校に呼び出されたときに、はっきりとその意味
を認識することとなった。
 処分の名称は「進路変更処分」。聞き慣れない言葉に困惑する私に、教師はこう説明した。
「君を、わが校の規律を全うできない者とわれわれは判断した。よって、今後わが校で学習する
ことはあきらめてほしい。速やかに自主退学届けを提出し、新しい進路をも模索しなさい」
 私は抗った。
 「なぜ、学校生活を続けたい私が、自ら自主退学届けを出さなければならないのですか」
 「この処分は、『進路変更処分』という名称であるが、『退学処分』に準ずるものである。教
育県を自負するわが県においては、その生徒の今後を考え、過去一人の強制退学者も出していな
い。もし君が自主退学届けを速やかに提出しないのなら、君が最初の強制退学者となる」
 教師は冷たい目で私を見下し、そして言った。
 「たった一度きりでいい。私にやり直すチャンスをください。学校がなくなったら、私は家に
も置いてもらえなくなる。どうかお願いです」
 私は生まれてはじめて教師に涙ながらの懇願をした。
「君がどんなに反省しても、職員会の決定は覆せない」
職員会とは最高裁なのか。
「自衛隊という道がある。同じ処分を受けた先輩も元気でやっているようだ」
実力者はなおも懇願する私を切って捨てた。
家における私の居場所は、こうして完全に消滅した。私のしたことは結果として、私を家から追
い出すための大義名分を両親に与えただけだったのである。案の定、彼らは私に告げた。「お前
は一度家を出なければ、これから生きていけない」と。
 次の日にはもう、児童相談所に私を委託する段取りとなっていた。こうして、両親の用意周到
なお膳立ては完結した。私は諦めと絶望のなかで、祖父母のいる生まれ育った家をあとにした。
 私は、児童相談所でしばらくのあいだ寝泊りすることを義務づけられた。だれかが里親として
引き取ってくれるのを待つためだ。当然だが、養護施設の話も取り沙汰された。相談所の先生は
私に言った。
「君のように、警察につかまったこともなく、片親だったり経済的事情があるということもない
のに、ここにこうしていなければならない例も珍しい。悲しいと思うなら、君はしっかりとした
親になるんだよ」
 ある日突然、失意のどん底で跪く私に、希望の光が注がれた。里親が私を引き取りにきてくれ
たのだ。溢れる慈愛とともに。
 その方は曽根川秀衛、多美さんというご夫婦で、現在、中国残留孤児の里親としてテレビなど
でも有名な、日本里親界の草分け的存在の方だった。そのご夫婦が私を見るまなざしは、私にい
ままで向けられていたそれとは、明らかに違ったものであった。私は、この二人のもとでもう一
度人生をスタートさせることを心に誓った。
 曽根川さんの家での生活は、安らぎと「正」の闘争心を常に感じさせてくれた。人は、こんな
にも優しい気持ちで生活することができるということを実感した。
 曽根川夫妻は、「両親」として、いままで私が家庭において置かれていた状況、現在の私の近況
などを話し、処分をした学校に情状酌量を求めてくれた。さらには、停学してもし私が過ちを犯し
たなら、「すべての責任は自分たちがとる」とまで言ってくれた。私も「復学」を望まずにはおれ
なかった。そして何度も頭を下げに通った。
 「生まれ変わった私を信じてください」
 しかし、学校の回答は頑なであった。時を同じくして、幸福なことに、私の学友たちは同学年
全員の署名を手に、学校長に私の復学を嘆願してくれた。しかし、その署名は「受理できない」と
いう学校長のひとことで力を失った。
 ある日、学校側から、いつまでも自主退学届けを出さない私たちにある妥協案が提示された。
その内容とは「休学届けを出し、学校にさえかかわってこなければ、他の高校に転校しようとする
際、協力を惜しまない」というものであった。失意のなかで、私たちはその案を受け入れた。
少なくとも退学だけは回避できたから…。そう思うことで心を慰めた。
 転校先探しは困難を極めた。当然、私のような経緯をもつ者を学区内の高校が受け入れてくれる
はずはない。かといって、学区外、県外の高校に中途編入しようとしたときにはそこに正当な理由
づけが求められるのが当然であり、それはたとえば転勤に伴う家族の引越し、両親の離婚による住
居移転などである。日本の学校は閉鎖的なのだ。
 もっとも、両親のわが子を想う愛は、先のような厳しい状況下にあっても転校を可能にしてしま
う、という例を私は知っている。
 私とほぼ同時期に学校から「進路変更処分」を受けた友がいる。その友人の両親は、子どもの反
省、そして復学の意志を成就させるためにすべての社会的体裁を投げ捨て、「夫婦の不和による別
居」というかたちで母の住民票を生家の住所に移し、子も母親についていくというかたちで転校を
成功させた。その行為が正しいのかそうでないのかは私にはわからない。しかし親の、子を想う愛
は、すべての障害を打ち砕く可能性を秘めていることを痛感した。私にはかなわぬ夢であったが。
当然のように友は、家族の慈愛のもと、高校を卒業し、有名大学に進学し、現在社会人として立派
に活躍している。
 転校先探しに奔走している私と、恩師である曽根川夫妻のまえにある日突然、その吉報は舞い込
んだ。それは、その日の朝配達された新聞の記事である。そこには、北星学園余市高校が転編入者
の受け入れを本格実施すると書いてあり、私の知る教師とは明らかに違う、諸先生方の熱い想いが
綴られていた。
 私は、「この高校に懸けてみたい」という心の底からわきあがる情熱を感じた。しかし、すべて
がスムーズに導かれたわけではなかった。
 さっそく願書を取り寄せ、胸を躍らせる私に、「転校するためのいかなる協力も惜しまない」と
約束した、私を処分した高校がまたも理不尽な(私はそう感じた)要求をしてきた。その要求とは
転校、あるいは編入を希望する理由を記述する欄に、私のありのままを書くことを禁ずるものであ
った。こともあろうか、「躁鬱病的症状があり、学校に足が運べないまでに悪化して病院に通って
いた」と記述するように要求してきた。そして面接練習では、「病院の場所まで答えられるように
」と要求してきた。歪曲してはいたが、人一倍正義感とプライドの高い私には、ひどく過酷な要求
であった。
 すくなくとも学校は、この要求を私にのませることで、常識では考えられない長期間の停学処分、
そして体裁上、強制退学にはできないがだからといって復学も認めない、よって妥協して休学を許
す、という理不尽な行動を永遠に闇に葬り去る画策を成就することができた。
 私は、北星学園余市高等学校二十三期生として転校を許された。しかし、私は、願いが成就した
喜びの反面、体裁と保身を重んじる大人たちによって張り巡らされた様々な思惑に操られざるをえ
なかった自分がとても惨めで、そして許せなかった。この転校許可は、偽りの報酬だったのだ。
 北星余市での生活のなかで、私のこの罪悪感は日増しに膨れ上がっていった。思い悩んだ私は、
思い切ってそのすべてを、現在でも人生の目標として師事している、当時の私の担任であった安達
俊子先生に打ち明けようと職員室を訪れた。「今後どんな目で見られても仕方がない」という覚悟
をポケットにつめて…。
 しかし、担任の先生は意外な行動に出た。悲壮な覚悟で打ち明けようとする私を制止したのであ
る。そして優しい目で私を見て、こう言った。
 「この学校に辿り着く生徒は、多かれ少なかれ皆心に傷をもっている。そして、それを乗り越え
るためにここにきている。だからすべては、乗り越えたとき、そう卒業式のあとの打ち上げで話し
てくれればいい。いまは前だけ見てお互いに頑張りましょう。」
 私は、いまでもこの日このときの感動を忘れない。おそらく、このときの言葉がなかったらなら、
私は罪の意識の呪縛から逃れようと企てたかもしれない。いや、きっとそうしただろう。救われた
私の心は、少しずつだが、正直で優しい気持ちをもつことのできる人間へと。
 私は現在、大学において教職課程を履修し、教師をめざしている。両親との関係は、私の大学合
格を境に沈静化した。あれほど頑なに抱いていた憎悪も、いまでは過去のできごととさえ感じてい
る。
 結局のところ、私と親との関係に欠けていたのは信頼感であったのだろう。どうしてそれがなく
なったのかは決して分からないだろうが、少なくとも私と親との争いは、すべてを巻き込み、そし
てそのあとには悲しみしか残らないものだったと今では感じている。まったく皮肉なことではある
が、幼いころから心に抱いた私の復讐の最良の手段は、「私が人を信頼できる人間になる」という
ことに帰着するだろう。
 私がここで「家庭」と「学校」について赤裸々に実体験を綴ったのには、二つの理由がある。
一つは体裁を気にした部分的な言及では裏側で起こっている様々な出来事の真実を語れないという
こと。そしてもう一つは、「教育」を構成する二台要素が「家庭」と「学校」という強固な「閉鎖
的部分社会」であるため、誰かが、実体験にもとづいた言及という「カギ」で開放しなければ、排
斥された被教育者の苦悩を浮き彫りにすることができないと感じたからである。
 もちろん、私の見解はあくまでも被教育者としてのみのものであり、一面的で、部分的であるか
もしれない。しかし、教育というものがあくまでも「大人」の対極を意味するところの「子ども」
に向けられているならば、大人は自らの教育の正当化論や建前論を交わすだけでなく、被教育者の
感じ方を理解することがなにより大切であろうし、また、それなくして現代の教育の抜本的改革を
促すことはできないであろう。
 私は、誰よりも批判的でありたい。しかし同時に誰よりも肯定的でもありつづけたい。すべての
矛盾が統一へと導かれるために…。

 

最終更新:2008年02月29日 17:56