「路上の箴言」中編 小説宝石2008年2月号より

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 ガラガラガラ―。
 「授業中、すみません。二宮先生、お電話です。緊急だから、とにかくつないでくれって…」
 ジムの横谷さんが教室まで僕を呼びにきた。授業中はよほどのことがない限り呼ばれることはない。
授業中の教室は担当教師の聖域だからだ。
 「誰からですか?授業が終わったらかけ直すと伝えてもらえませんか?中間テストまであと三コマしか
ないんですよ」
 「とおっしゃられても…先方もかなりパニックになっておられるみたいで、とにかく二宮先生に
つないでくれって聞かないんです。教頭先生にも相談しましたが、とりあえず二宮先生に伝えるようにと…」
 何を考えてるんだあの教頭は。ついこの間も職員会議で「何よりも授業を大切にしましょう」と演説を
ぶったのはどこのどいつだ。
 「先生、緊急でしょ。行ってきなよ。テスト範囲はほとんど終わってるんだからさ」
 「辛い時はすぐに飛んでく。一人で抱えるな!って言ってたじゃん、ハハハハハハ」
 「似てたよ今、マジ、ニノちゃんにそっくり」
 「受けた?じゃあもう一発。僕はみんなと出会うためにに教師になった。これからの学校生活でそう
思えることが何度もあるように時を分かちあいたい!ってか」
 ギャハハハハハ。さっきまでのクラスの集中が完全に解けてしまった。二宮は黒板の前で大きくため息をついた。
 「わかりました。今、職員室に戻ります。みんなは教科書四二ページの練習問題をやって待っていてください。
隣の教室は授業してるんだから、静かにするんだぞ」
 「いやったー!」
 ったく…最近は授業中だとわかっているのに平然と電話をかけてくる親が多い。この間も、授業中に生徒が
電話をしているから注意して問い詰めたら、何と相手は生徒の母親だった。
子供たちのモラルの低下が叫ばれて久しいが、子供たちは大人社会を映し出す鏡。まさにその通りだ。
ムシャクシャしながら足早に職員室へと向かった。

 「もしもし、二宮です。お電話、代わりました」
 行事予定が書かれている黒板の前の電話の受話器を乱暴に取り上げ、点滅している代表ボタンを押して、少し
迷惑そうに受話器の向こうに問いかけた。
 「せんせーい、あきらが、あきらが」
 「もしもし、あきらって?二宮ですが、落ち着いて話してください。どちら様ですか?」
 「あらが、あきらが、ふ、ふびをふって…」
 「大宮さんですか?お母さんですか?ふびをふってって?落ち着いて。アキラに何かあったんですか?
大宮さん、お母さん!」
 「わわわわわ、あきらが、わわわわ」
 受話器の向こうの母親は完全に錯乱状態となっている。のっぴきならない状況なのは明らかだ。
 「わかりました。今からお宅に行きます。待っててください。すぐに行きますから」
 二宮は返事を待たずに受話器を置き、教頭のもとに駆け寄った。
 「今、うちのクラスの大宮の母親から電話がありまして、大変なことになっているようなんです。
すぐに行こうと思うのですが、許可をお願いします」
 教頭の佐々木は焦る二宮とは対照的に落ち着きながら、いや、ほとんど興味がないといったそぶりでつぶやいた。
 「何があったかわかりませんが、一人の問題ある生徒に対応するということは、他の生徒を置き去りにするという
ことでもあります。先生が学校を飛び出してしまったら、残りの先生の授業は自習になるのです。他の先生にも
自習監督をお願いしなければなりません。みんな忙しいんですよ。落ち着いて、授業が終わってから家庭訪問
したらいいじゃないですか」
 「そんな悠長な!とにかく大変なんです。もともと授業をしている僕に電話をつなぐようにと指示したのは
教頭先生でしょう?とにかく行かせてください」
 「おやおや、人のせいにしないでください。まあ、落ち着いて、二宮先生。とにかく、今は五時間目です。
六時間目の授業が終わってから行ってください」
 「これが落ち着いていられますか!普通の様子じゃないんです」
 「どうしたんですか?授業中に…二宮先生、またあなたですか。今度はいったいどうしたというんですか?」
 二宮の憤る声を聞きつけた校長が、眉間に皺を寄せながら校長室から出てきた。
 「校長、今、うちのクラスの保護者から緊急の電話が入って…。すぐに行ってあげたいのです。許可してください」
 「まあ、落ち着きなさい。緊急の電話って、何があったのですか?先方はなんていってるんですか?」
 「いや…」
 まさか「ふびをふって」と母親が叫んでいるなどともいえず言葉を飲み込んだ。
 「いや…じゃないでしょう。そんな不確かなことで授業を投げ出したら困ります。いったん、教室に戻ってください」
 「校長先生、私はずっとそう説得してるんですけど、聞く耳も持ってくれないんです。まったく、これが一般企業
なら、もうクビですよ。だから学校の常識、社会の非常識なんて言われるんです。校長もこう言っているのですから、
速やかに指示に従って教室に戻ってください、二宮先生。これは業務命令です」
 わが意を得たりとばかりに教頭は二宮を促した。
 「…わかりました。そのかわり、万が一大事件が起きていて、学校の責任問題になったりしたら、お二人で
責任を持ってくださいね」
 二宮は捨て台詞のようにそう吐き捨て、乱暴に職員室のドアを開けた。するとドアのすぐ向こうには昨夜
「死にたい」とメールをしてきた、アキラと付き合っているサヨコがいた。
 「先生、二宮先生?何かあったの?」
 「なにかあったのじゃないだろう?今、授業中だぞ?お前こそ、なにやってんだ」
 「ううん。今日、話を聞いてくれるって言ったから、もう、なんか授業を受けてるのも限界で…アキラ…
のことなの」
 「アキラの?と、とにかく、僕は授業に戻らなければならないから、放課後まで待ってくれ。聞いてやるから」
 「待てないよ。アキラ、なんかあったんでしょ?」
 は?何かあった?ってなにを言ってるんだ?なんでお前にそんなことわかるんだよ?まてよ、アキラの母親、
「あきら、ふびをふって」…「アキラ、首を吊って」…まさか!まさか!まさか!いかん!二宮は踵を返して
職員室に戻り、机の引き出しから車のキーを取り出すと、そのまま全速力で職員階段を駆け下り駐車場へと
向かった。
 「待って、先生、私も行く!」
 サヨコが追いかけてきた。
 「ダメだ、学校で待っててくれ。そんな場合じゃないんだ」
 セルの周りをキーが滑る。
 「いや、連れて行って。そうじゃなかったら、私、死ぬから。本当に死ぬから」
 イラつきが、怒りに変わる。
 「そんな駄々こねてる場合じゃねーんだ。とにかく降りろ!事情は後で説明するから」
 「イヤ、イヤ、私も連れてって、お願い」
 やっとキーが刺さった。
 「勝手にしろ!」
 セルを回し、アクセルを踏み込むと同時に、改造を施したランサーエボリューションはタイヤが焦げる匂いと
ともに跳ねた。

最終更新:2008年03月30日 12:03