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+&bold(){愛洲 久忠}(あいす ひさただ、享徳元年(1452年) - 天文7年(1538年))は、室町・戦国時代の兵法家。影流・陰流の始祖。現在の三重県度会郡玉城町岩出字大森出身。号は移香斎(いこうさい)。剣聖・上泉信綱は弟子である +&bold(){出自} +愛洲移香斎久忠は、現・三重県度会郡玉城町岩出大森に生まれた。子孫である秋田県の平澤家(久忠の子の宗通以降、佐竹氏に仕え名字を平澤に改めた)に伝わる文書、『平澤家伝記』によると、本名は愛洲太郎久忠、また左衛門尉や日向守と称した。移香斎は法名である。 + +幼少期より天才的な剣才に恵まれ、その名は伊勢に知れ渡っていた。そこで、武者修行をもって生業とし、気の向くままに諸国を巡り、上洛する。愛洲久忠の壮年期は文明の大乱から戦国時代への突入の時代である。文明年間(1469年~1487年頃)伊勢国内だけで120以上の関所があり、「一里一銭」の関銭が相場であった[1]。 + +『剣道の発達』の著者・下川潮翁の研究では、「武者修業の初見」は『足利季世記 五』の「伊賀国(現三重県伊賀上野周辺)に日置弾正忠豊秀と云者出来て、當流を射初め、故流の射形異形なりとて日本弓修行して江洲(ごうしゅう・滋賀県)に来り、佐々木高頼・同定頼二代に仕え弓の師と成り、入道して瑠璃光坊と号す。以徳遍く日本を廻り弓の弟子を尋ぬる、云々」とあり、地域も近畿地方に限定されている事が判る。 + +戦国大名が自国領内に競って関所を設置した為、関銭の費用は莫大であった。更に、「剣法修業」ではなく「弓修業」であり、鉄砲が戦闘の主兵器になる以前は、弓が主力武器であった事も判明する。 + +今迄愛洲久忠が何故伊勢国(三重県)から日向国(宮崎県)に赴いたのか判らなかった為アマチュアから武道史専門家に至る迄、百家争鳴、小説家よろしく、無茶苦茶な空想の世界であった。 + +愛洲久忠の伊勢愛洲氏は室町幕府の遣明貿易で、醍醐寺座主満済との脈絡に依って「伊勢法楽舎二号船・九号船」の宝徳度(1451年)発遣以来携わっていた。愛洲久忠が北京に赴いたのは第二期・六次遣明貿易で、文明15年(1483年)12月に堺を出港している。日向(宮崎県)に寄港し、年を越して寧波を経て、北京には成化20年(1484年)11月に着いて、文明18年(1486年)7月4日に帰国している。紫禁城で成化帝の近衛兵である「御林軍(ぎょりんぐん)」に「影流」を伝授したのはこの時と思われる。 + +『武備志』巻八十六 陳練制 練 教芸に掲載されている「影流目録」の中に「猿」が演武している図絵も入っている。「猿」は古来より日本では「浅猿(あさまし)」、「猿若(さるわか)」、「猿廻(さるまわし)」、「猿楽」等、差別的芸能として扱われて来て居り、「武道の演武者としての発想」は日本にはない。中国では「三蔵法師」のお伴として「孫悟空」が「如意棒」を自在に操り、破邪顕正の活躍で「守護神」の如きの特別の扱いをされている。明らかに「猿の演武の図」は、成化帝が御林軍に「影流」を習熟させる為に中国側が作成したテキストであった事が判明した。 + +日中間での公式文化交流で、日本側が中国の皇帝陛下の御前で「影流」を「演武」「伝授」した事は後にも先にも愛洲移香斎久忠只一人である + +愛洲久忠が「摩利支尊天」の篤信家であった事は久忠自筆の呪文でよく理解出来る。今に伝わる『平澤家傳』は愛洲久忠八世平澤通有が、元禄元年(1688年)、松下見林の『異称日本伝』を享けて作成された事は「武備志」が「平澤家傳」に取り入れられているので間違いない。二世愛洲美作守宗通以来、常陸の太守 佐竹公への兵法御指南役は五代平澤常長までで、秋田への転封後は、佐竹藩は柳生新陰流を奨励している。 + +「平澤家傳」にある「愛洲移香斎久忠の開眼談」は、愛洲久忠の摩利支尊天信仰と大きく食い違っており、更に「影流」を「陰流」と表記する等、「柳生新陰流」を意識して作成されていて、八代平澤通有の「作り話」が数多く含まれている。 + +愛洲久忠が明国に赴いた文明年間は「武士」が一族・武士団を離脱して「剣法修業等」で身を立てるなど絵空事である。勅命を受けた公卿ですら、京都から駿府へ下向するのはままならなかった時代であり、時代考証を全く理解していない読物・三文小説の類の話である。 + +後北条氏が関八州を席巻して行く過程で、関東管領上杉氏が関東攻略を永禄年中繰り返すが、その際、上杉勢の落人狩りは徹底していたと記録されている。捕虜は斬首か異国へ奴隷として売られた事がルイ・ソテロ等の伝道師の日記にある。浪人等が敗者復活出来る「陣場借り」等は、織豊期の事である。 + +愛洲久忠は文明年間、明国の成化帝の近衛兵・御林軍に「影流」を指南し、中国に「影流」を拡めたが、日本国内で拡めたのは二代・愛洲美作守宗通である。永禄の初め、常陸の太守・佐竹義重公に兵法指南の為、約百名の家臣団を引き連れ、愛洲宗通・小七郎常通親子は常陸太田に入部した。 + +常陸入部に際し、伊勢大神宮外宮御師「久保倉二頭大夫」が大きな役割を果たしている。中世史で伊勢大神宮の「御師」達の活躍を見落としてはいけない
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