東トルキスタンにおける不当な逮捕・拘禁・死刑


死刑、臓器回収
 中国の独裁政権は権力を維持するために、恐怖と暴力に頼ってきた。中国共産党政府に異議を唱える者を不当に逮捕し、懲役刑、死刑など執行されてきた。
 中国の死刑判決数、死刑執行数は飛びぬけて高く、長年世界一位の座を保っている。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの調査によると、2008年一年間で、少なくとも7千人に死刑判決、1千7百人に死刑執行が行われた、との最小推定値が出されている。しかし中国の死刑に関する全国統計は国家機密とされており、実際にはこの数字を大幅に上回っていると見られている。そのためアムネスティでも2010年の年間報告書からは、中国の死刑執行数に関する最小推定値を公表しないことにしている。中国政府は、死刑執行数は年々減少していると主張するが、それならば毎年の死刑判決数と執行数を公表すべきであると、アムネスティは要求している。
 中国での死刑が適用される犯罪は、殺人など凶悪犯罪以外に、「国家安全危害罪」などの政治犯罪や、脱税や横領などの経済犯罪など、68の罪名に上っていた。2011年には死刑が適用される犯罪が55まで減少され、75歳以上の高齢者への死刑も制限された。しかし実際に死刑から外されたものは、死刑の適用がほとんどなかったものであり、広範な罪名で死刑が適用される実態に変化は無いものと考えられる。
 さらに死刑判決に至る裁判も、国際的な人権基準からは程遠い。被告の多くは公正な裁判を受けることができず、弁護士への面会が制限されている、拷問による自白が証拠とされるなどの問題がある。通常の国であれば、疑わしきは罰せずという「推定無罪」が近代法の基本原則であるが、中国は疑わしいものは罰せられる「推定有罪」の状況である。検察側が有罪を立証するよりも、被告人が無実を証明しなければならないことが多い。
 中国の刑事訴訟制度は基本的に二審制であるが、2007年以降、すべての死刑判決は最高人民法院が再審査することになり、死刑事件に限っては三審制がとられている。これをもって中国は死刑判決については十分に注意を払い、死刑執行数は減っていると言う。しかし、死刑制度についての統計が国家機密であること、三権分立が確立せず、法治主義ではなく役人等の意向が強く反映される人治主義であること、さらに「重大犯罪」を犯した者への死刑判決については「毅然」と行われることなどから、その実効については疑問が残る。東トルキスタンで死刑判決を受ける者の多くは「国家安全危害罪」など政治犯であるが、このような当局の政治的判断による「重大犯罪」に、十分な注意が払われ、確実な証拠によって死刑判決が下されるものとはとても思えない。

 中華人民共和国で行われてきた死刑執行の多くは銃殺刑であり、見せしめのための公開処刑も頻繁に行われてきた。死刑執行に使われた銃弾の費用が死刑囚の家族に請求されるという話もある。近年では、「全ての人間の尊厳に国が敬意を払っている」として、薬物注射による死刑執行が増えている。しかし中国は移植用臓器最大の供給国であり、処刑された囚人からの臓器の回収が、薬物注射による死刑によって、より効率的に行われているのではないかと懸念される。実際に、移植用臓器を死刑囚から回収していることについては、多数の証言が寄せられ、報告が成されている。中国の移植用臓器の65%~90%は、処刑された囚人からのものであるとの証言もある。
 また省によっては移動処刑車が導入されており、移動しながらの薬物注射による死刑執行で、死刑囚の遺体を新鮮なうちに病院に届けるために利用されている。銃殺刑の銃撃の部位は、本来は後頭部とされているが、臓器(内臓)が必要なときに後頭部を撃ち、角膜が必要なときは心臓部を撃つという報告もある。
 移植には、本人や遺族の同意が必要であるとされてはいるものの、実際にはほとんどそのような手続きなし、あるいは意向を無視して臓器が取り出されていると言われている。死刑囚の死体は死刑執行後すぐに火葬されるため、遺族は臓器が摘出されたかどうかを確かめることができないようになっている。

労働改造所(ラオガイ)
 「労働を通じて改造する」という発想によって生まれた強制収容所が「労働改造所(労改・ラオガイ)」である。自身も19年間労働改造所に入れられたハリー・ウー(呉弘達)氏が設立した「労改基金会」によると、60年間に4~5千万人もの人々が拘束され強制労働を課せられ、無数の人々が残忍な状況下で亡くなったと推測され、現在でも千箇所以上の収容所で、数百万人の人々が苦しんでいるとされている。しかし労働改造所に関する数字は極秘とされ、更に収容施設が突然閉鎖されたり、移転されるため全容の解明は不可能である。
 元々ソ連の強制労働収容所(ラーゲリまたはグラーグ)に倣って始まったが、中国の労改はその本家を凌ぐ施設規模、囚人数、収益をあげるシステムとなっている。労改では、収容者はほとんど無償で収容所内の農場や工場、作業場で働かされている。日常的に受ける暴行や虐待、慢性的栄養不良、結核や肝炎の蔓延など、極めて劣悪な環境に置かれている。更に普通の国の刑務所などと異なり、労改での強制労働は中国政府にとっては「儲かるビジネス」となっている。

 毛沢東の時代には、囚人は農業や鉱業以外に、道路や灌漑施設といった主要なインフラ設備建設のプロジェクトに投入されてきた。中国が市場経済を導入してからは、政府にとって大きな収入源として活用され、囚人はお茶や子供用玩具、半導体といった多岐にわたる製品の生産に強制的に従事させられている。
 労改の労働環境は劣悪であり、保護具なしでアスベストを採掘している囚人、バッテリーの酸を手袋なしで扱う囚人、皮をなめす化学薬品をかき回すため裸でその桶に入れられる囚人など、利益のために囚人は常に労働災害の危険にさらされている。
 労改のシステムが始まってから、数百万人が「反革命分子」、「右派」として断罪されてきた。1997年にこの犯罪は「国家安全危害罪」と改名され、起訴される人数が上昇し続けている。2008年に1700人以上が逮捕され、1400人以上が起訴された。1998~2008年に「国家安全危害罪」で起訴された人の99%は、裁判で有罪とされてきた。

 また労改は、一般企業のような企業名を持ってビジネスをするため(労改企業)、我々日本人も気付かぬままに強制労働によってつくられた商品が輸入されて、市場に出回っていると考えられる。労改企業からの労改製品の多くは仲買人によって取引されるため、一旦市場に入るとその製造元を追いかけることは極めて困難となっている。
 「労改基金会」は、労改でどのようにして製品が生産されているか、その労改製品がどのようにして国際市場に出回っているかも調査している。その調査の結果、国際ビジネスデータベースである「Dun & Bradstreet」の中に、労改企業が314社も名を連ねていることが判明した。また「労改基金会」のレポート「 非合法輸出に対する強制労働製品の広告」では、100を超える労改企業が、英語で広告を出していることや、インターネット上にリストアップされていることが示されている。
 もちろんこのような労改の強制労働による製品の取引は、アメリカも中国も法律によって禁止されている。  
 またこの2国間で結ばれた貿易協約的なものとしては、1992年の刑務作業製品取引禁止に関する覚書、1994年の同様な共同声明などがあるが、実体が掴めない以上、実施が難しく効果的ではないとしている。
 1994年に中国政府は正式に、ラオガイ(労改)という用語をジアンユ(監獄)に変更した。しかし名称を変えても、その実体やシステムに変化はない。そのため「労改基金会」も歴史的に見て巨悪の象徴となったこの名称を使い続けるとしている。アメリカやヨーロッパの辞書にもlaogaiとして載るようになってきており、その実態と名称とが知られるようになっている。
 また、労働改造所以外にも、中国にはさまざまな名称で、政府に反抗する者を収容する仕組みがある。
  • 労働教養:正式な裁判を経ずに拘留できる保安処分。警察を主体とする「労働教養管理委員会」の判断によって、最高3~4年まで施設への収容が可能となっており、司法による審理は無い。各地方政府の労働教養管理委員会が、「社会秩序を乱した」といった理由で恣意的解釈によって拘留することが可能な、公安にとって便利なシステムである。そのため、この制度を見直す案が2007年に出されたものの、審議が進まず棚上げ状態にある。中国全土で、数十万の人びとが労働教養施設に収容されていると言われている。

  • 安康病院:公安部に所属する精神病院であり、精神障害者が社会の治安を害さないように、強制医療を加える保安処分を行う。政府に抗議する人の中でも、精神病として安康病院で強制的に投薬され、電気ショックで大人しくさせられていることがある。
  • 黒い監獄:地方政府などが、その行政権などが及ばない範囲で行う、極秘で不法な拘束システム。北京や省都などに陳情者が行った時に、陳情を妨害するためにその陳情者の地元政府がギャングを雇い、ホテルや借家に彼らを監禁することをいう。

東トルキスタンで起きていること
 東トルキスタンでも、中国の他の地域と同じく、拷問や恣意的拘禁、不公正な政治裁判などの人権侵害が続いている。当局はテロとの戦いということを口実に、また「厳打」キャンペーンも利用して、抑圧をより強化させている。
 他の地域と比べても、「分離主義者」や「テロリスト」とされた政治犯が多数逮捕され、長期に渡る拘束や、処刑された人も多数いる。今でも政治犯数千人が、不当に拘束されている。特に2009年のウルムチ事件以降、逮捕される者が増えている。人権組織「中米対話基金会」は、新疆ウイグル自治区高等人民裁判所での国家安全危害罪の裁判が、2009年は前年に比べて63%増加していると報告している。
 労改基金会の労改ハンドブックによると、東トルキスタンの監獄は確認されているものだけで72箇所、労働教養所は13箇所存在する。そして、労働改造所の実態をつかむ事が特に難しい地域として、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)と青海省(チベットのアムド地方など)があげられている。工業製品製造、採炭、農場耕作、紡績などが行われ、監獄や労改と結びつかないような企業名(新疆第三機械工場、ウルムチ日用品加工所など)で、それらの製品が輸出されている。

ラビア・カーディル
 現世界ウイグル会議総裁のラビア・カーディル氏は、中国の当局によって逮捕されるまでは中国国内有数の資産家であった。彼女はウイグル人女性の経済的自立を促すための基金を設立するなど、女性の権利を確立することに大いに貢献した。
 1999年に、アメリカの議員に対してウイグルの置かれている状況をまとめたレポートを渡そうとしたが、このことで「国家機密漏洩」の罪状で8年の懲役刑を受け拘禁された。

以下、彼女が講演会で語った自身の獄中の体験をまとめたものである。
 「刑務所で過ごした最初の2年間は、光の射さない真っ暗な部屋で暮らした。40日のうち1回だけ外に出してもらうだけで、それ以外は光の差さない真っ暗な部屋に座らせられ、ものを言うことも文章を書くことも、体を動かすことも禁止された。このような状況下で自分の意識を保てたのは、ウイグル人を助けるという信念であった。本当なら処刑されるはずであったのだろうが、国際人権団体など国際組織の働きかけによって明るい部屋へと移ることができた。
 あるとき看守に『お前が助けようとしている民族を見せてやろう。』と言われ、ある部屋に連れて行かれた。その部屋の両隣の部屋から拷問を受けている人間の声が聞こえたが、とても人間のものとは思えず、けもののような声であった。その声が大きくなったり小さくなったりした後に、私は部屋から外に出されたが、その時に隣の部屋で拷問を受けていた20~25歳くらいの若い男が血だるまになって連れ出されてきた。『お前が救おうとしている者の運命はこうだ。救える力があるなら救ってみろ。』と言われた。私自身が彼らと同じように拷問を受けた方が、ただ見ているだけであるよりもよっぽど楽だっただろう。
 刑務所にいる6年間、私は笑うことも話すことも本を読むこともなく、じっと座っているだけであった。肉体的な暴行こそ受けなかったが、彼らは私を精神的に追い込もうとしていた。ある看守は扉の前の地面を指差し、『お前は死んでここに埋められる。そして私はお前の死体の上を通って扉を出入りするのだ。』と言った。また私の髪を可笑しげな形に切ったりした。中国人の看守は常に私を非人間的に扱った。『そんな酷い姿、人間とは思えない姿でどうする?』、『自分を救えずにどうやって他人を救う?』、『ウイグルの母はなんて美しい姿をしているんだ。』というような言葉を投げかけた。
 しかしアムネスティ・インターナショナルなどの国際人権組織やアメリカ政府の働きによって、2005年3月に釈放され、アメリカのシカゴの空港に降り立つことができた。迎えに来ていたRFAの記者によって、私の声が始めて外の世界に発せられた。」

 彼女が世界ウイグル会議の総裁に就任した後、中国政府は報復として、彼女の息子2人を逮捕した。一人は分離主義者として、もう一人は脱税をした、として現在も投獄中である。特にアリム氏の健康に不安があり、面会した家族らによると、過酷な拷問のせいで見間違えるほど衰弱していたという。

犠牲になったウイグル人
ハイレット・ニヤズをはじめとしたジャーナリスト 
 7月5日の「ウルムチ事件」に関連し、多くのウイグル人ジャーナリストとウェブサイト運営者が捕えられ、長期の懲役刑を宣告されている。
 ジャーナリストのハイレット・ニヤズ氏は2009年10月に、ウルムチ事件以前に書いたウイグル人の失業問題や差別の実態などを論じた論文や、事件後にメディアのインタビューを受けたことを理由に逮捕された。彼はメディアの取材に対して、7月5日の騒乱の根本的な原因は、政府による双語教育(二言語教育)の強要と、ウイグル人の若者を内地に強制的に移送していることなどがあり、これがウイグル人の不満を高まらせたと説明した。
 2010年7月には、自分で弁護士を選ぶことも出来ないまま、傍聴は妻だけという状況で、1日の裁判だけで「国家安全危害罪」により懲役15年の判決を受けた。
 中国の国内法では言論の自由が保証されており、ハイレット氏も裁判で、何ら法を犯しておらず、市民として、ジャーナリストとして義務を果たしたに過ぎないと主張したが、中国の犯罪法のあいまいな条項が援用され、有罪判決を受けた。

 ハイレット氏の他にも、ウイグル人の置かれる状況を広めたとして、捕らえられ有罪判決を受けたジャーナリストには以下のような方々がいる。
グルミラ・イミン (ジャーナリスト兼ウイグル語ウェブサイト「サルキン」への寄稿者、2010年4月に終身刑)
メメトジャン・アブドゥッラ (ジャーナリスト兼ウェブサイト「サルキン」の管理人、2010年4月に終身刑)
ニジャット・アザット (ウェブサイト「シャブナム」の管理者、2010年7月に懲役10年)
ディルシャット・ペルハット (ウェブサイト「ディヤリム」のウェブマスター兼所有者 2010年7月に懲役5年)
ヌレリ (ウェブサイト「サルキン」のウェブマスター、2010年7月に懲役3年)
トゥルスンジャン・ヘジム(ウェブサイト「オルフン」の管理者、2011年3月に懲役7年)

 他にも大勢の方々が逮捕されている。彼ら有罪とされたジャーナリストやウェブサイト管理者のほとんどは、国家安全危害罪に問われてる。中国当局はウイグル人の人権改善を求める平和的な行動に対して、中国の犯罪法のあいまいな条項を援用して断罪し投獄してる。国家安全危害罪は他の法令よりも更にあいまいであり、”国家の転覆”、”分裂主義”、”機密漏洩”などが含まれ、宗教や言論・集会の自由といった権利に対しても、犯罪であると乱用されてる。      

アフメトジャン・エメット
 「国家分裂扇動罪」で服役中のウイグル人アフメットジャン・エメット氏が、ウルムチ事件の数ヵ月後である2009年11月末に、ウルムチにある第三監獄で心臓病で死亡したと警察当局から家族の元に連絡がきた。
 アフメットジャン・エメット氏は、寧夏回族自治区や甘粛省で出版された宗教関連書籍を販売し「不法宗教活動」に関与したとの口実で、2008年4月にグルジャ県で拘束、2009年3月に「国家分裂扇動罪」で懲役15年の判決を受けていた。
 監獄に入る前に元気で病気などにかかったことのない彼が突然心臓病で死亡したことに納得がいかなった家族らが警察当局に対して、死体の司法解剖を要求すると同時に、グルジャの地元に埋葬したいので死体を返すよう要求した。しかし、警察当局は、死体が既に当局によって埋葬されたとして、家族の要求を全て拒否した。
 彼が監獄で突然死亡した時期は、2009年7月に発生したウルムチ事件後の一斉拘束でウイグル人が大量に拘束されていた時期と重なる。世界ウイグル会議スポークスマンのデリシャット・レシット氏によると、特にウルムチ事件後に監獄で拷問などで死亡したウイグル人が急増した可能性が非常高いという。

ムハメッド・ケリム
 シュガル地区メキット県第3村のウイグル人住民ムハメッド・ケリム氏は、警察当局に連行されてから数ヵ月後にウルムチの監獄で死亡した。彼のイスタンブールに住む友人アブドゥレヒムジャン氏によると、警察当局は一カ月ほど前に家族をウルムチに呼び寄せ、彼が死亡したことを知らせた。ウルムチに駆け付けた家族は死体を返すよう警察当局に求めた。しかし、警察当局は家族が死体を見ること許したものの、死体を家族に返すことを許さず、ウルムチにある墓地に家族の目の前で強制的に埋葬してしまったという。
 彼は宗教的な知識が高く、地元住民に尊敬されていた人物であったが、2002~2003年に何度か警察当局に拘束され、残虐な拷問を受けていた。拷問のせいで、釈放された時には会話が不自由な状態になっていたという。

ムタリップ・ハジム
 ホータンで有名な玉商人として知られているムタリップ・ハジム(38)の遺体が、「誰にも見せないこと」の条件付きで2008年3月3日に中国警察当局から遺族に引き渡された。警察当局がその2ヶ月前(2008年1月)にムタリップ・ハジムを自宅で拘束し、ホータン地区カラカシ県にある水牢で残虐な拷問を加えた。警察当局が彼をホータン地区人民病院に移送して十日ほど治療させるが、体調が回復せず死亡。病院にいる間にも家族との面会は許されなかった。

 ムタリップ・ハジムの友人によると、ホータン市警察当局は、「投獄中の政治犯らの家族に対して経済援助を行った」  「宗教教育を行っている秘密組織(宗教学校)に経済援助を行った」「自宅でコーランなどの宗教書籍を保管した」「宗教学校を開設して宗教教育を行ったことが理由で2002年以来投獄中の、73歳のアブラット・マフスム・ハジムをお金を払って釈放させることを試みた」などの罪で彼を拘束していたという。
 なお、このムタリップ・ハジム氏が拷問で殺されたことに対し、ホータンで女性を主体としたデモが行われ多数の逮捕者を出した。

ショヒラット・トルスン
 「7・5ウルムチ事件の容疑者」としてウルムチで拘束されたウイグル人の一人であるショヒラット・トルスン氏は、9月19日の午後2時に警察当局によってコルガス県ランガル村に住む家族に死体で引き渡された。警察当局は彼の父親に対し、あれこれ言わずに死体を静かにさっさと埋葬するよう命じたという。ランガル村警察署の署長アニワル氏がRFAの電話取材に対して、死体を受け取った家族は体中に拷問の痕があることを見て、死体をさっさと埋葬することを拒否していることを明かにした。
 トラック8台の武装警察と装甲車2台がやってきて、トルスン・イシャン氏(死亡したショヒラット・トルスン氏の父親)の家を包囲していたという。
 その後、警察は彼の遺体を安置している部屋の扉を打ち壊し、家族に無理やり遺体を埋葬させたという。

 なお、この事件についてRFAに情報を提供した、ハジ・メメットとアブドサラム・ナスルという二人のウイグル人が拘束された。拘束された二人は、拷問死したショヒラット・トルスン氏の親戚と近所の人であった。
 更に2011年5月にエリシデン・イスライル氏がカザフスタンから強制送還された。彼は2009年9月RFAに、ショヒラット・トルスンが拷問によって死亡したとの情報を寄せ、このことによる弾圧を恐れ国外へ脱出していた。

ヌルムヘメッド・ヤスン
 雑誌「カシュガル文学」の2004年度・第4号に掲載された作品「野生の鳩」の著者であるウイグル人作家ヌルムヘッメッド・ヤスン氏は、中国当局によって「作品の中で分裂主義を呼びかけ、扇動した」として逮捕され、2004年3月に懲役10年の判決を受け、ウルムチにある第一刑務所で服役中である。
 彼の親族によると、2005年11月に国連の拷問に関する特別調査官がウルムチを訪問しヌルムヘッメッド・ヤスン氏と面会した後に、当局の態度が一段と厳しくなり、2ヶ月に一回許されていた家族との面会も半年に一回しか許されなくなったという。更に監獄では毎日のように政治学習を受けているという。

 2005年の終わり頃に、国連の拷問に関する特別調査官マンフレッド・ノワック氏が北京、ラサ、ウルムチなどにある監獄を調査した際に、ウルムチの第一刑務所で服役中のヌルムヘッメッド・ヤスン氏と面会し、拷問を受けたかどうかについて調査を行っていた。マンフレッド氏は調査後に調査報告書で、肉体拷問が中国で常に存在していること、ウイグル人作家ヌルムヘッメッド・ヤスン氏も肉体拷問を訴えていたことなどを明らかにしていた。

労改基金会ハリー・ウー氏と世界ウイグル会議
 2010年4月にラオガイ研究基金会のハリー・ウー氏が来日し、ウイグル問題を考える会主催で、同氏の講演会を行った。中国の監獄で行われる拷問や、強制労働の実態などを、自身の経験も交え語っていただいた。ハリー・ウー氏来日中には、チャンネル桜などにも出演したようである。

 ウー氏は「百花斉放百家争鳴運動」で中国共産党を批判したため、1960年に23歳で投獄され、鉱山や農場などでの強制労働を強いられた。1985年に渡米、教職に就いた後、人権活動家として活動を始め、何度も中国に潜入し、調査を続けている。1992年に「労改基金会」を設立し、中国の強制労働や、中国で行われている広範な人権侵害についての情報を集約し、発信している。

 2009年11月には、ハリー・ウー氏が世界ウイグル会議のラビア総裁にインタビューを行った。またアメリカウイグル協会、アメリカ民主基金との共催で「ウイグル人―漢人の関係の将来」と題しパネルディスカッションを行っている。
2010年にはアメリカウイグル協会と共催で、「ウイグルの経験:60年の中国共産党政統治下で」と題し上映会を行っている。







最終更新:2013年07月11日 14:48