異民族支配を正当化する「中華民族」論について


 現在の中華人民共和国は多民族国家であり、漢民族やウイグル族、チベット族、モンゴル族などから構成されている。その中国の範囲にいる民族は全て「中華民族」であるとされ、民族概念が二重構造となっている。よって漢人以外の民族も中華民族であり、その民族が住む土地もまた中華民族の土地であるとされている。
 歴史的に、中原の王朝による支配や、冊封体制に含まれる期間が短かった地域などについて、もしそれぞれの民族単位で判断するならば、その地域の民族から、更には漢人からも、それは歴史的に中国であったとは言えないのではないかという疑問が呈されるのを、この「中華民族」の概念により否定するために用意された、といえよう。
 実際に中国はその支配を正当化するために、歴史的に見ても中原王朝とその地域との関連は深かった、と強調するきらいがあったのであるが、それが出来ない範囲もあることがはっきりしている。そもそもそれら歴代の中原の王朝は、異民族地域を化外の地と呼び、万里の長城を築いていて侵入を防いでいたのであるから、より一層その論拠が薄いものとなるだろう。
 例えば東トルキスタンについては、漢と唐の時代に西域都護府などが置かれたほんの短い期間以外、中国の中原王朝との関わりはほとんどなかった。
 ようやくその支配下におかれたのは満人の清朝によるもので、そのときですら土地の土豪や宗教貴族による自治を、イリ将軍や各大臣が治めるという間接統治であった。新疆省とされ、他の地域と同様の道州府県が置かれ、主要ポストに漢人を据え直接統治が行われるようになったのは1884年からである。
 このように現政権に対しての異民族支配の正当化を与える「中華民族」について、成立の歴史的な経緯と、現在の主流となっている「中華民族多元一体構造論」についても触れてみたいと思う。更にこれが端的に現れる、中国の歴史地図の編纂についても見ていきたい。

中華民族の概念の成立
 欧米諸国から蚕食されていた清朝の末期、孫文は万里の長城以南、秦成立以来の土地に漢人による国を再建すると訴えた。この際のスローガンは、「駆除韃虜、回復中華」であり、あくまでも他民族による支配を脱し、漢人による国家をつくろうというものであったことが分かる。
 1911年の辛亥革命によって清朝が崩解すると、中華民国の臨時大総統となった孫文は、民族の団結を訴え「五族共和」を謳った。「漢・満・蒙(モンゴル)・回(ウイグル)・蔵(チベット)の諸地を合わせて一国とし、諸民族をあわせて一人とする」というものである。これまで隷属的な地位に置かれていた民族がいたというところから、新しい国家は各民族が平等に共同で作り上げるという意味も込められたものであったが、同時に清朝の版図にあった他の民族の分離・独立の否定をも意味していた。

 そして更に1921年になると「漢族をもって中心となし、満蒙回蔵四族を全部我らに同化せしむ」と言うまでに孫文の意識は変化していった。このように彼の主張は、あくまでも漢人が中心であり、他の4民族は同化されるべき存在であるといえ、五族協和の掛け声は、新たな中華民国の国民へと再組織化するためのスローガンに過ぎなかったといえよう。
 そしてこの孫文の五族共和は、抗日戦争期にはナショナリズムを高揚させる必要性から、蒋介石の「中華大民族論」へと変わっていった。漢民族以外の諸民族は中華民族の支族・宗族であり、「中国5000年の歴史は、各宗族共通の運命の記録に他ならない。この共通の記録は各民族が融合して中華民族となり、中華民族が共同防衛してその生存をはかり、中国悠久の歴史を作りあげている。」とされた。この理論に基づいて辺境の積極的経営が行なわれた。

 以上の孫文から蒋介石に至る、漢人を中心とした中国国内に存在する民族を全て含んだ「中華民族」概念の形成についてみてきたが、現在の中華人民共和国もまた同様にこれを継承している。

 しかし中国共産党が結成された当初は、国民党との差別化のためか、「少数民族」の自決権を認め、連邦制の国家を志向していた。1922年の中共第二回党大会では初めて民族問題の綱領を示し、翌年の第三回党大会で民族の自決権を強調した。さらに中華ソビエト共和国の時期に入ると、この民族綱領が最も急進的となり、少数民族の自決権の承認や各弱小民族の独立権承認が認められるまでに至った。

 しかし抗日戦争・国共内戦を経て、実際に国内の統一が進み、自らが権力を握るようになると、民族自決権・分離権は全く否定され、区域自治政策へと転換されていった。

中華人民共和国設立からの民族工作について
 中華人民共和国が建国されてすぐのころは、民族問題の扱いについて細心の注意が払われ、「民族工作」の基本原則として以下のように定められた。

 ・各民族は平等である。
 ・民族に対する差別や圧迫、民族の団結を破壊する行為を禁止する。
 ・民族の言語・文字を使用し発展し、風俗習慣を保持し改革する自由を持つ。
 ・少数民族が集住するところでは区域自治を実行する。

 しかしこれらの権利は認められたものの、「中華人民共和国の不可分の一部」であるということははっきりしていた。
 民族区域自治政策の第一段階として、「民族識別工作」という民族の区分作業が行われた。漢族を含めて民族数はもともと5族であったが、建国当初に10民族となり、その後39民族、55民族、56民族と増えていった。しかし、独自の文化と言語、歴史をもっているウイグル人やチベット人などと、人口数千人に過ぎず固有の言語も文字も持たないような、あとから定義された民族とが、等しく民族とみなされるなど、区分の基準はかなり曖昧なものであった。
 自治区の画定については、単一民族の自治区域となることを避けるために漢族を入れた区域にし、単一民族の自治区域の場合はなるべく狭く、というような判断の元に行なわれた。
 本来であれば、少数民族の自治を行わせるためには、その区域での少数民族の割合を高めるべきである。このように民族識別工作はかなり政治的な意図の下に進められたものであることがわかる。

現在の中華民族多元一体構造論について
 中華人民共和国の民族識別工作において重要な役割を果たしたのが、社会人類学者の費孝通である。彼は民族構成が複雑な中国西南部の民族状況の調査を理論面、実践面で指導した。
 そして彼が1988年に発表し、翌年発行した「中華民族多元一体格局」:中華民族の多元一体構造についての理論が、近年の中国における民族論・民族政策のバックボーン的な位置を占め、更に社会的・政治的な影響を及ぼしているのである。
 費孝通の「中華民族多元的一体構造論」で、「中華民族」は「多元であるが一体」と、一見すると矛盾するようなことを結論付けているが、この概略は彼自身が統括した以下の言葉のようになる。

 「自覚的な民族の実態としての中華民族は、この100年来、中国が西方列強と対抗していくなかで出現したものであるが、自然発生的な民族の実体としては、数千年の歴史過程によって形成されたものである。
(中略)
 その主な流れは、多くの分散したり孤立して存在した民族単位が、接触や雑居、結合と融合、あるいは分裂と消滅という過程を経て、一方が来れば一方が退いたり、一方の中に他方を包み込むなど、それぞれ個性を持った多元的な統一体を形成してきた。(中略)
相当早い時期、今から3000年前、黄河中流域に、民族集団の集まりが出現し、徐々に融合していって一つの核心となった。彼らは華夏と呼ばれ、雪だるま式に、周囲の異民族を吸収し、この核心に加えていった。彼らは、黄河と長江の中流域の東アジア平原に拡大して以降、他の民族によって、漢族と称された。漢族は、その後も不断に他の民族を吸収し、日増しに拡大したばかりでなく、異民族の居住地域にも浸透して、集結と連携のためのネットワークを構成し、境域内の多くの民族が連合してできた、分割不可能な統一体の基礎を築いた。こうして自然発生的な民族実体が形成され、後に民族としての自覚を経て、中華民族と称されるようになった。」(「中華民族の多元的一体構造」 費孝通編著 風響社より)

 費孝通がこのような民族論を形成した基となったのは、雲南や貴州などでのフィールド調査によるものである。そして雲南や貴州は、漢族との混在が進んでおり、更に固有の文字も持たない諸民族が入り組んでいる地域であった。
 彼のいうように自然発生体としての民族実態として、「中華民族」が形成されてきたというモデルは、このような地域であるからこそ導き出された理論であり、それをウイグル、モンゴル、チベットのように、固有の言語・文字などを持ち、漢人との接触の少ない期間が長かった地域にまで拡張したことには無理があると言えるだろう。

 また、費孝通は、民族実体を形成し中華民族となった人々は、現在の中華人民共和国の領域内に住む民族であるとしているが、中国のモンゴル族とモンゴル共和国のモンゴル人、中国のカザフ族とカザフスタン共和国のカザフ人のように、その領域外に居る同じ民族は中華民族に含まれないのか、さらに域外の人も中華民族を形成しようと志向していると見做して良いものか、という矛盾もある。

中国歴史地図について
 1982年に発行された「中国歴史地図集」について、編纂をリードしたのが歴史地理学者の譚其驤である。この地図集は各時代の中国の地図を描いたものであり、唐代や宋代など当時の中原王朝以外の、各民族政権の地域をも着色しており、中国以外の地域とは区別して表現している。

 1981年5月下旬に開催された「中国民族関係史研究学座談会」で、この歴史地図を作成するにあたっての基準や考え方などを譚其驤が講演している(「历史上的中国和中国历代疆域」:歴史上の中国と中国の歴代の境域)。
 彼は「中原王朝の版図のみを歴史上の中国の範囲とするやり方をまねることはなかった。我々の偉大な祖国は各民族人民、周辺民族も含めてともに創建したものであって、歴史上の中国を中原王朝と同一視してはいけないのである。」とし、更にこの歴史上中国の範囲とは何かというと「我々は清朝が統一を成し遂げた以後、帝国主義が中国に侵入する以前の清朝の版図を、つまり具体的には18世紀50年代から19世紀40年代のアヘン戦争前の時期の中国の版図を、我々の歴史時期の中国の範囲とした。」としているのである。

 この作成された歴史地図で、例えば前漢の時代を見ると、この時代の東トルキスタンの地域は、西域都護符が置かれていたことから、漢と同じ色で表示されている。北の匈奴などは、漢とは別の色で着色し、中原王朝ではないが、中国の地方の民族政権であるという表現にしている。
 もうひとつの例として、元の時代(1330年)の地図を見る。大領域を支配したモンゴル帝国は、チンギス・ハーン没後、4つに別れた。これを中国の歴史地図で描くと、大元国とチャガタイ・ハン国は別々の色で着色されるのである。更に他のモンゴル帝国の後裔国、キプチャク・ハン国とイル・ハン国は、歴史的中国の範囲ではないとして着色されていない。このように中国視点の身勝手な地図となっており、当時はもちろん現在のモンゴル人も、許容し難いものであるのではないか。

 彼は講演の中で、この範囲に入る各民族政権が、歴代の中原王朝からの支配や、更には接触すらほとんどなかった時期があったことも認めた上で、アヘン戦争前の時期までに中国の範囲が確定し、そこに含まれる政権はすべて中国の歴史であり、中国の範囲に入るとした。何故この清の版図を中国の範囲と言えるか、これは歴史の発展で、各民族の統一への合意があったからである、としている。この基準に、費孝通の「中華民族多元一体構造論」との共通性を見ることができる。
 ただし、歴史学者の中に見られる、疆域の民族政権と歴代中原王朝との接触を無理にでも作ろうとする風潮を批判し、また、現地の権力者を経由した間接統治(羈縻政策)をとっていた地域と、直接統治していた省とは同じに見ることはできない、というように、歴史的な事実を認め、原則を捻じ曲げるべきでないとする、このような彼の主張は評価できる。

 費孝通は民族が凝集する核となったのが漢民族であると言うのと同時に、各地域でも同様にその地域のある民族が凝集の核になったということも述べている。彼は民族という意識は流動的に時代と共に形成されていくものとしてとらえ、そしてその結果が中華民族となったとしている。ここには孫文以来の中華民族=漢民族であるという大漢族主義(中華思想)の意識を払拭し、中国の国民を形成するためのプロセスを構築したいという意図がみられる。
 また譚其驤は歴史上の中国の範囲を、漢民族の中原王朝がそこを治めたかどうかという基準を持ってくることは、大漢族主義になってしまい、多民族国家として筋が通らなくなる、だから清の時代の版図の範囲にある民族の歴史はすべて中国の民族の歴史であるとしている。彼は古代から清に到るまで、その中国という土地の概念は時代と共に変わることを示し、漢民族による中原王朝のみを中国の歴史として捉えることを批判している。

 しかし、両者の言う民族の凝集や統一への合意というのは、もし現在の中国の領域という枠組を取り払うならば、それぞれの地域での民族国家形成のプロセスであると看做すことも出来るのではないのか。もちろん、歴史的事象を取り上げて彼らが証明しようとしたように、中国への統一を求める動きもあったであろうが、ウイグル、モンゴル、チベットはそれ以上に自らの民族国家を求めたのである。
 例えば、東トルキスタンで19世紀終わりから20世紀初頭にかけて盛り上がった近代式教育による汎トルコ主義・汎イスラム主義的な意識の拡大は、中国からの分離と、テュルク系民族国家を設立するという結果をもたらしている。しかし現在の中国政府は、この東トルキスタン共和国を、テュルク系民族の民族意志として受け入れることをせず、あくまでも国民党政府に対しての「三区革命」としての評価に留めているのである。そして現在のウイグル人の民族意識の高まりには、分離主義者・反動主義者として非難することしか出来ないのであるから、この中華民族の理論は、政治的な意図を基として作られたといえるだろう。
 中国は「汎トルコ主義」や「大モンゴル主義」のように、「中華民族」よりも明らかに民族的、言語的、歴史的つながりの強い民族の統合を目指す動きについては、これを認めることはあり得ない。よって「中華民族多元一体構造論」も「中国歴史地図集」も、あくまでも支配した側の強者の理屈でしかないと言えるだろう。







最終更新:2013年07月11日 16:09