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簡雍


劉備軍の重鎮の一人。《犠・雄・軍》旗揚げ当初からの最古参の武将で、
劉備との付き合いは関羽や張飛よりもさらに古い。
平素は酒と女を愛し、口が達者で、
しかし特に秀でた点も見受けられない平々凡々とした人物で、
兵や同僚たちからは「なぜ劉備様が簡ヨウを引き立てるのか理解できない」と
陰口さえ叩かれている。
ちなみにこれに対する関羽の見解は「兄上は簡雍の身に纏っている故郷(幽州)を
貴重なものと感じられているのであろう」であり、
張飛は張飛で「簡雍の野郎を遠くへ置いておくと女に刺されたり酒飲んで暴れた挙げ句に
野垂れ死にしやしないか心配なのさ」とコメントしている。

だが、あくまでもそういった簡雍の姿は陽のあたる場所での仮のものである。
彼の真実の姿は夜の闇の中での諜報や暗殺を極めし劉備専属の特殊工作員である。
簡雍は腰に20尺もの長さの布を巻いたまま、
布の端が地面につかぬように走り続けることができ、
さらに足音を完全に消して行動をすることも得意としている。
全身に20もの暗器を忍ばせており、特に細長い鋼線を使っての暗殺術は
絶技と呼ぶにさえ相応しいだろう。
その彼の劉備軍における最大の功績を二つ挙げるとすれば、
それはやはり周ユの暗殺と、成都攻略の際の活躍であろう。

《周瑜の暗殺》
赤壁以後、呉軍では急速に漢の南半分を統一しようという機運が高まっていた。
この計画を立案し、その指揮を執っていたのが当時の呉の大都督周ユであった。
当時、呉の戦力に比べれば劉備軍の戦力は巨象の前の蟻といった有り様であり、黙って手をこまねいていれば、勢力図上から劉備軍の名が消えてしまうのは
確実であるように思われた。
そこで劉備はひそかに周瑜の暗殺を決意。簡雍にこれを依頼した。
簡雍はまさに軍を起こそうとしていた周ユの館に忍びこみ、
病死にしか見えない手法で彼の命を奪ったのである。
これにより呉軍の蜀攻めは立ち消え、劉備軍の命運は保たれた。
ただし、周瑜の死に対する疑念は孫権らの胸にずっと渦巻き続け、
やがてそれは両軍の衝突を招くことになるのだが……。

《成都攻め》
蜀獲りを敢行し、ついに成都へ攻め寄せた劉備軍だったが、
蜀の君主劉璋は城に篭城し、いたずらに日にちだけが過ぎていってしまった。
そこで簡雍は使者として単身劉璋の元へと乗り込んだ。
敵対する劉備軍からの使者である簡雍は当然劉璋軍の歓迎は受けなかったが、
簡雍は取り押さえようとした兵士たちをあっとういう間に暗器で始末し、
劉璋に駆け寄ると、鋼線を彼の首に押し当てながら、
「俺はいつでもこんな城になんか忍びこんで、アンタの首を獲れるんだぜ?
これ以上抵抗するってんなら……。なあアンタ、地位と命、どっちが大事だい?」
と耳元で囁いた。これには劉璋もすっかり震え上がり、即日無血開城した。


このように、簡雍は劉備軍に対して長きに渡り少なからず貢献してきたが、
彼の真の姿を知るのは劉備だけであった。
これは、劉備軍には関羽を筆頭としてこのようなある意味で汚いとされる手段を
嫌う者が多かったからである。
功績に対して報われることの少ない生涯であった、とも言えるが、
簡雍はこれに対して一度足りとも劉備に不満を洩らさなかったという。