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其一


曹植が平原侯に封ぜられ、父曹操に従って馬超征伐に赴く途上で洛陽を通り、
そこで応氏と送別した時の作。応氏は応?と、その弟の応?を指す。
応?はその頃平原侯庶子(庶子は侍従官で、家老に次ぐ職)として、曹植の側近にいた。

作詩の時期は建安十六年と推定されているが、これには古来異説があり、
其一と其二は同時の作ではないという説もある。

歩登北芒坂
遥望洛陽山

導入の句の場面である北芒とは、洛陽の東北にある山で、墓地として知られた。
恐らく、西征にあたって墓参りをするために立ち寄ったのだろうが、
侘しい情景と静寂は眺めやる洛陽の様子によく合い、また洛陽を眺めた時の感慨をいっそう強いものにする。

三国志の中で、董卓が洛陽を焦土にして陵墓を暴き、長安に遷都したくだりは印象の強い場面だ。
怨嗟の声をあげる民を追いたて、屍や病人を捨てながら進む死の行軍。
残された廃墟を復興するのに、多くの年月を要した。
勿論、詠み手が立っている墓地から連想される死はここに繋がっているといえよう。

第五句目から第十句目までの対句では、変わってしまった洛陽の有様を描いている。
破産した栄華の残り香を感じさせる崩れた建物、荒廃を象徴するいばら。
すでに昔から住んでいた人はいなくなっており、道や田畑も荒れ果てている。

これから曹植はいつ終わるとも知れない西征に随行し、
側近として、ともに文事を語る友人として大きな存在だった応氏とも暫く別れることになる。
変わってしまった今を眺め、昔を思い、胸がふさがる思いに苛まれた詠み手の心情は、
悲痛な情景を緻密に表現した描写によって読み手に生々しく伝わる。