城館


Bonjour.

甘く蕩ける<ヴィーナスの乳首>には及びませんけれど、
このサロンにひとつお話を献じましょう。

それは5月のことでした。
木々が緑に照り映えて、<歓喜>の眷属の小鳥たちが高らかに歌を交わす……
<恋の季節>も盛りの時分でした。

ある青年が、春の陽気にうきうきと心を躍らせて
肩で風を切って庭園を歩いておりました。

〝人間を愛さないのではない、それ以上に自然を愛するのだ〟

ドーヴァー海峡の先からギリシアのミソロンギにいたるまで名を馳せた、
とある詩人の詩の一節が彼の頭に浮かんでおりました。

彼は社交的で、人との交わりを愛しておりましたが、
人を愛する心はこうした神の恵みのもとで芽生えるものだと、
そう考えておりました。

ふと、彼は目の前に小さな城館を見出しました。
優美な建築は、建築士というよりは、
まるで画家の手によるもののように思われました。
閉ざされた門の先には、色とりどりの花が風にそよぎ、
多くの小鳥が愛を語らっておりました。

城館に入ることが許されるのならば、なけなしの家財をまとめて
全てを捧げても構わないという気持ちにさえなりましたが、
いずれの殿のお住まいにしても、彼は知遇を持たなかったのです。

それでも、春の陽気の与える行動力といいましたら、
コンスエグラの風車に立ち向かう
ドン・キホーテにも勝るものがあるのはご存知でしょう。
青年は門に歩み寄ると、声をあげて呼びかけました。

〝私は名乗るべき名も持たない、ただ通りがかっただけの者でございます。
こうして殿の平穏をみだりに騒がしておりますことは、断首にも値するもので、
イカロスが分不相応な望みを抱いたことにも勝る不敬でございます。
ですから、この不埒者はいかなる裁きにも謹んで服す所存ですが、
それにしても、ひと目だけでも殿の庭園を拝見したい!
さもなくば、私の心は常に乱れ、生きていても生きた心地がせず、
屍のごとく成り果てることでございましょう。
ああ、すでに私の心には狂気が巣食っております。
自分でも何を申し上げているやら分別がつかない有様でございますが、
どうか、お情けをかけてはいただけますまいか!〟

すると、門の向こうから、うら若き少女がこちらに歩いてきたのです。
髪は羽毛のように柔らかく、神の愛を豊かに受けたように
美しい金色をしておりました。
頬は紅潮し、眼には喜びをたたえて、
全身には奔放な活力を抱いておりました。

〝まあ、騒がしいこと。でも、お気になさることはございませんわ。
あなたの言葉は、教養のない田夫野人の口からは決して出ないものですもの。
胸の内にとても美しいものをお持ちだわ。
お入りなさいな。皆さまも、きっとあなたを歓迎してくださるでしょう〟

少女は自らを<閑暇>と名乗りました。彼女の友人となることを許されれば、
さるべき人の心には余裕が生じ、やがて人や自然を愛するようになるのです。
彼女に手を引かれて、花咲く庭を歩いていると、胸のいらだつような不幸は
まるで絵空事であるかのように感じられ、幸福と慈愛の海が彼を優しく抱きました。

〝私と一緒の時は、お気を付けになって〟
彼女は出し抜けに、青年を気遣うように言いました。
〝私のお友達になってくださる人は沢山いるのだけど、
自由を持て余す人は多いのよ。
私の親類に<怠惰>がいるのだけど、そちらに溺れてしまわれるのね〟

遠目に眺めたそれが素晴らしかったように、
城館は間近に臨むといっそう素晴らしく感じられます。
細部は繊細な曲線によってしつらわれ、
柔らかい白は他のどの色よりも気高く、美しいものでした。

〝少しここでお待ちになって〟
おそらく突然の来客を知らせるためでしょうが、
彼女は城館の中へ入っていきました。
金色の髪がふわりと揺れる様子は、
豊穣の秋に小麦の穂が風を受ける情景を思わせます。

ややあって、<閑暇>の代わりに二人の貴婦人が青年を出迎えました。
一人は<敬意>という名で、長い黒髪をしっかりとまとめております。
涼しげな目は髪と同様に深い黒で、謹厳な雰囲気をまとった女性でした。

<気高さ>と名乗った二人目は、いかなる装飾品も身に帯びてはおりませんでしたが、
青年が今まで目にしたことのある女性の中で、
これほどの気品を備えた人はいないほどでした。
まさしく彼女は四海の女王で、聨娟の薔薇も、
まさしく彼女の眷属に他なりません。

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最終更新:2009年01月01日 20:56