テンポイントは、かつて中央競馬に所属していた競走馬。
1975年にデビューし、阪神3歳ステークスを制覇。その強さは関西馬の中で圧倒的で「関西の期待」とまで呼ばれた。当時の競馬会のレベルは東高西低で、ビッグレースはほとんど関東馬の天下に取られた。
4歳になり、東京4歳ステークスを勝ち、皐月賞に挑むもトウショウボーイに敗れる。続く東京優駿(日本ダービー)は7着と惨敗。それどころか故障が発覚して休養に。
故障が回復し、クラシック最後の菊花賞へ挑むが、12番人気だったグリーングラスに敗れ2着に終わる。年末に有馬記念に挑戦するもまたもトウショウボーイに敗れ2着に終わり、4歳の時、現在のG1に当たるレースは1度も勝てなかった。
5歳を迎えた1977年、有馬記念での敗戦から「悲運の貴公子」とまで呼ばれたテンポイントは春の天皇賞に出走し、見事優勝した。が、宝塚記念でまたもトウショウボーイに敗れ、「テンポイントは永久にトウショウボーイに勝てない」とまで言われた。
そして陣営は有馬記念へと調整を続けた。トウショウボーイがこのレース限りの引退が発表され、勝たないとプライドが許されない状態に。そして運命の出走、最後はトウショウボーイとグリーングラスとの三つ巴を演じ見事優勝。この年の年度代表馬にも選ばれた。
6歳になり、海外遠征を陣営は発表したが、年明け第一戦の日経新春杯で、競馬史上最悪とも言える悲劇が起こった。66.5kgという競走馬としては重すぎる斤量でテンポイントはレースに挑んだ。だが、テンポイントは骨折し、競走を中止した。
骨折は重度なもので、競馬会は安楽死を勧めたが、ファンから助命するよう嘆願の電話が殺到し、手術を行った。が、1978年3月5日、テンポイントはこの世を去った。テンポイントの死はマスコミによって大きく報じられた。
バトロイでの台詞はほとんどが当時の杉本清の実況の名言である。