【春】-前編-
ノルガルドの都フログエルに遅い春が巡ってきた。王宮にも暖かな日光が差し込み、大理石の廊下に点々と陽だまりをつくっている。
重臣ロードブルは、その廊下を足早に歩いている。ノルガルドの騎士の中で一番年かさであるが、寄る年波を感じさせない力強い歩調だ。
と、ロードブルは一人娘エライネの姿を目にした。彼は早くに妻を亡くし、現在はエライネとふたり暮し。重臣として皆から一目置かれる存在であるロードブルも、娘にだけは弱い。
重臣ロードブルは、その廊下を足早に歩いている。ノルガルドの騎士の中で一番年かさであるが、寄る年波を感じさせない力強い歩調だ。
と、ロードブルは一人娘エライネの姿を目にした。彼は早くに妻を亡くし、現在はエライネとふたり暮し。重臣として皆から一目置かれる存在であるロードブルも、娘にだけは弱い。
ロードブルはエライネに声をかけようとしたが、娘の横にもうひとつの人影があることに気付き、とっさに手近な柱のかげへと身を潜めた。エライネが歓談している相手は騎士エクトール。騎士としての序列こそ低いが、持ち前のやる気と明るさとで定評のある若者だ。ロードブルは身を隠したまま、ふたりの様子をこっそりとうかがう。
(まさか、エライネはエクトールと……)
不安が胸にきざした。いくら耳を澄ましても彼の位置からでは会話の内容までは聞こえない。ふたりはしばらく親しげに話し込んでいたが、やがてエクトールが片手をあげて別れを告げた。
ロードブルは若者が立ち去るのを確認してから愛娘に歩み寄り、さもたった今気付いた風を装ってエライネに話し掛けた。
ロードブルは若者が立ち去るのを確認してから愛娘に歩み寄り、さもたった今気付いた風を装ってエライネに話し掛けた。
「おや、今のはエクトールじゃないか。彼と何を話していたのかね?」
愛娘は、父親の姿を認めると妙にそわそわしたように視線をそらし、
「お父様には関係ありませんわ」
そう言って、そそくさと立ち去ってしまった。これまでエライネは一度だってロードブルに隠し事をしたりしなかった。それが、この変わり様。
(これは、やはり……)
ロードブルは急にどっと老けこんだような気持ちに襲われた。
「……老いたかな」
その夜、酒場でロードブルはぽつりとつぶやいた。
「耳も少しばかり遠くなったし、物忘れもする。おまけに手塩にかけて育てた一人娘には男ができたようだ。まだやれると思っていたが、若い者に道を譲る時が来たのかも知れん」
「馬鹿を言うな。ロードブル殿はまだまだ現役で通じるさ」
騎士仲間のルインテールが答える。いつものことながらロードブルの倍の速度で杯を飲み干し、まだ宵の口だというのに卓上にはすでに空の酒瓶が数本、無秩序に倒れている。ロードブルは、友の豪快な飲みっぷりを横目にため息をついた。
「おまえにはまだわからぬかも知れぬが、老いというのは、体の先端からやってくる。指先、目、耳……そして、一番最後が心。だから体が衰えてもなかなか老いを認めることができぬのだ」
ロードブルはそう言って、手をすかし見るように明かりにかざす。
「今でも、目を閉じれば若かりし頃が昨日のことのように思い出される。あの頃は、自分が老いて死ぬのだということなど考えもしなかった」
「さもありなん。我々騎士は常に今を生きる。老後を考えるなど、堕落だ」
「そういう意味ではない!」
ロードブルは、むっとしながら答えた。
「同じことだ」
ルインテールは肩をすくめた。
「だいたい弱音を吐くなど、ロードブル殿らしくもない」
「らしくない? らしくないとはどういうことだ。 ワシは、ワシだ。らしいもらしくないもあるか!」
たしなめられたロードブルは、つばをまき散らしながらむきになって叫ぶ。酔いが回ってきたせいか、感情に自制がきかない。
「からむな、からむな! 酒がまずくなる」
と、しかめっつらをしながらルインテール。ロードブルはそんな友の迷惑も顧みずに話しつづける。
「娘が騎士となったからには、ワシにもそれなりの覚悟がある。だが、だがな……嫁となると話が別だ。あれが嫁に行ってしまったら、ワシは何を心の支えに生きていけばいいのか……」
「ふん、男のやきもちはみっともないな」
ルインテールは再び杯を一気にあおる。
「娘のいない奴にワシの気持ちがわかってたまるか!」
ロードブルも続けて杯をあおる。
「ああ、わからんね。俺はむしろエクトールをほめてやりたいくらいだ。俺など若い頃から内気で女に縁がなかった」
言ってからルインテールは豪快に笑う。
「そんな調子だから未だに独身なのだ! エクトールに先を越されてもいいのか?」
問われてルインテールの顔から笑みが消える。
「ふむ、なるほど。そう言われてみれば、俺を差し置いて女をつくるとはエクトールめ生意気な奴だ」
「そうだ。若造のくせにワシのエライネに手を出すなど、生意気だ! エライネにはもっと相応しい相手がいるはずだ!」
勢いに任せてそう言ってから、ロードブルは視線を宙にさまよわせエライネに相応しい相手について具体的に思案する。しかし、酒で麻痺した頭では考えがまとまらない。仕方なく、彼はルインテールに言った。
「かくなるうえはルインテールよ、エクトールがエライネに相応しいだけの男かどうかを試してくれ。お前に勝てるだけの強さをあの若造が持っているのであれば、ワシも諦めがつくというものだ!」
「ようし、わかった! 俺に任せておけ!」
ルインテールは、即座に酒くさい息とともに言い放ち、不敵な笑みを浮かべた。
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