週刊文春 20061/19日号

「だから」教育論

文部科学省から精神性疾患で休職扱いとなっている公立小中高などの教員の数が発表された。その数、前年度より三六五人増の三五五九人、過去最多となった。

 残念という以外、言葉が浮かばない。確かに子どもたち、親たちが多様化・複雑化した現在、日常感じる教師たちのストレスは昔の比ではないだろう。だが、少なくともずっと教師を続けようと思っているならば、そこから逃げてどうするというのだろうか。

 休職した教師に対しては、ほとんどの自治体が満額の給与保障をしている。

企業等では考えられない厚遇だ。そして、あくまでも戻ることが前提の「休職」なので、代替としての新たな専任教師は採用できない。このため教育委員会や学校は非常勤講師を必死に探すが、現実にはそう簡単に見つからない。必然的にそのツケは全て生徒たちに回ってくる。

 近年、「トラウマ」という言葉が一般化した。当たり前のようにそんな言葉を口にしながら、立ち止まり、引きこもる。しかし、それではいつまでたってもその「トラウマ」に支配され続けるだけではないだろうか。

 例えば戦争を体験した方々はどうだったか。殺し合い、連夜の空襲、敗戦、絶望、……

そんな体験をした先人たちの「トラウマ」は想像を絶するほど深きものだろう。

でも、先人たちは決してそれに支配され、立ち止まることはしなかった。何もない焼け野原の中で必死になって汗を流し、平和を願いながら前に進んだ。先人たちが戦争というトラウマを平和への願いで乗り越えたように、トラウマを持つ者は、その原因となった出来事と正面から向き合わない限り、それを乗り越えることはできないだろう。

「なぜ、うちのクラスは学級崩壊するのだろう」「なぜ、今の子どもたちはこんなにも自分勝手なのだろう」「なぜ、最近の親はこんなにも無責任なのだろう」「なぜ、自分ばかりこんな目にあうんだろう」___________

 我々は小学校時代から机の上で「なぜ」への解答を出すことを至上命令とされてきた。知らず知らずにそんな思考が染み付いてしまっている。しかし、勉強なら答えは出ても、人間関係に絶対の答えなどない。それをもし頭の中だけで悶々と考え続けたなら、心が壊れてしまいそうになるのはある意味当然といえるだろう。

 何度も言っている。大切なのは「なぜ」でなく、「だから」なのだ。

耐震偽装問題、女児殺害、鉄道脱線事故、政治汚職、集団自殺、アメリカ牛肉輸入再開……昨年は日本中に「なぜ?」の嵐が吹き荒れた。でも、もうそれは終わりにしよう。各自が当事者として「だから」を探して行動する。その先でこそ新しい時代の幕は上がるだろう。

 大量の団塊の世代の定年退職が始まる二〇〇七年。

教育界も同じである。残された時間は一年しかない。

今我々は「だからの時代」の主役とならなければならない。

最終更新:2006年10月25日 16:25