テレビ寺子屋(第1510回)

http://www.sut-tv.com/terakoya/kougi/no1510/kougi.htm

「夢は逃げていかない」

私は長野市出身で、小学校の頃は典型的なガキ大将でした。

「野球の練習をするぞ」と仲間を連れて近所のリンゴ畑に行き、“悪球打ち”などと言っては、バットでリンゴを打ち落としたりしていました。そのたびに親が、畑の持ち主に謝りに行ったものです。

中学校の頃には不良と呼ばれるようになりました。ただ、自分では不良は不良でも“正義の不良”だと思っていました。同じクラスの仲間たちはすごく好きで、弱い者を助けたりもしましたが、大人とか権力にはよく反抗したものです。今、振り返ってみると、純粋だったんだと思います。

今、ニュースなどを見ると、連日のように青少年が起こす深刻な事件が報道されています。そのたびに、育て方がいけなかったんじゃないか、とか、学校や地域はなにをやっていたんだ、などと様々な視点から批評がされていて、論点がバラバラになっていると痛切に感じています。学校は家庭のせいにする、家庭は学校のせいにする。そして、教育委員会や地域、社会のせいにする。しかし、本来、教育の当事者は誰かといったら、それは我々一人一人が当事者なんです。

現代の教育が混迷している原因は何か。それは歴史的に連綿と踏襲されてきた普遍的な“育てる”という概念が、方法論重視の戦後教育の中で曖昧になってしまったこと。そして、核家族化が進み、おじいちゃんから親へ、そして孫へと伝わってきた“親学”が浸透しなくなってしまった情勢、それらが教育の原点を揺るがしているのではないかと思います。

今、教育は多様化していて、いろいろなことに手を出しているような気がします。しかし、教育は今こそ原点に戻ることが必要だと私は考えます。そのために、私は少年時代に大人から教えられたことを自分の中で整理し続けてきました。それをお伝えできればと思います。

テレビ寺子屋(第1512回)

http://www.sut-tv.com/terakoya/kougi/no1512/kougi.htm

「希望とは道のようなもの」

今日は希望とは道のようなもの、というテーマで、教育は何に対して明確な責任を持てばいいのか、お話ししたいと思います。

青少年の事件が起こるたびに、責任という言葉が飛び交っているような気がします。学校の責任、教師の責任、親の責任…。では、責任とは具体的に何に対して責任を持てばいいのでしょうか。私はあるとき、教師を目指す大学生たちに質問してみました。いろいろな答えが返ってきましたが、その中で多かったものは「未来」と「人生」でした。聞こえは良いのですが、実際にそんなことができるのかというと、私はできないと思います。「未来」や「人生」を作っていくのは、子供たち一人一人なのですから。

本来、大人が大切な子供たちに持たなければいけない責任とは何だったのか。私の答えは、子供の「成長」に明確な責任を持たなければならない、ということです。今こそ、教育に携わるものは、この原点に立ち返るべきだと思います。

では、子供の「成長」に責任を持つ教育とはどんなものなのでしょうか。私は現在行われている教育は、子供の「成長」に無責任な教育だと考えています。子供たちが悲しむものを大人たちが先回りして取り除いていく、子供たちの負荷を、愛情という名の甘さにすりかえて、軽くしていくのが良い大人の条件だと語られている状況が非常に恐ろしく感じています。成長とは抵抗の中でしか成し遂げることができないということを、いつ大人たちは忘れてしまったのでしょうか。

当然、子供たちの抵抗になるということは、彼らから反発を受けることになります。しかし、それを恐れて、どんな教育ができるのでしょうか。優しさと甘さをすりかえてしまっている大人が増え、その甘さの結果、苦しんでいる若者が大勢いるというこの国の状況を打破するためにも、「成長」に責任を持つということを改めて考えてもらいたいと思います。


最終更新:2006年12月10日 02:11