※
 「サヨコはここで待っていてくれ。とにかくアキラの様子を見てくる。いいか、勝手なことはしないで
ここで待ってるんだぞ、いいな」
 一方的に告げると車から飛び出て、目の前の町営住宅の階段を三階まで駆け上がった。
 「大宮さん、楠木中の二宮です。大宮さん」
 ピンポン、ピンポン、ピンポン、ドンドンドン、ドンドンドン――。
 「大宮さん、二宮です」
 三二五号室からの応答がない。ドアノブをひねる。鍵は開いていた。
 「二宮です。入ります」、返答を待たずに、家の中へと入った。玄関正面のドアを開けると、アキラの
母親が派手な装飾をした携帯電話を握りしめながら視線を宙に泳がせている。
 「大宮さん、二宮です。どうしたんですか?何があったんですか?」
 緊張が解けたのだろう。肩を抱いて揺さぶると母親は、突然、大声で泣きながら僕にしがみついてきた。
僕の胸に埋もれて泣いている明の母親の髪から、加齢臭がただよってきた。三十代前半にしか見えない
若々しい姿からはとても想像できない臭い。なぜだかわからないが、僕は彼女を守りたい、瞬間的に
そう思った。
 「もう、安心してください。僕がいますから。何があったんですか?アキラは何処ですか?」
 彼女の髪を撫でながら、努めて優しい声で穏やかに訊ねると、彼女はダイニングの奥にある一室をゆっくりと
指差した。その指は細く、そして、白かった。
 僕はしがみつく彼女をそっと離し、大きく息を吸い込んでから、部屋の襖をあけた。
 アキラが目を見開いたまま天井からダラリとぶら下がっている。命の残骸からは糞尿の香りがした。

                 ※

 「おい、先生、何やってんだよ。もうとっくに六時間目、終わってんじゃん。帰りのホームルーム
忘れてんのかよ」
 教室はざわついていた。いつもならチャイムと同時に入ってくるはずの二宮がいっこうに姿を現さないからだ。
 「オリエ、ちょっと職員室に行ってこいよ。お前、委員長だろ?みんな予定あるんだし」
 「ったく、みんな勝手なんだから。こんな時だけ委員長って。わかったよ。行ってくるから勝手に帰んないでよ。
ヨウコちゃん、付き合って、一緒にいこっ」
 去年まで不登校だったヨウコを委員長のオリエは何かと気にかけている。オリエ自身、小学校五年生のとき、
一年間、父親の転勤で関西の小学校に転入したことがある。その時は、どうしてもクラスに馴染めず孤独な日々を
一人送った。一年近くも学校に来ていなかったヨウコも転校生と同じ。あの頃、自分がクラスメートにして
欲しかったことを彼女にしてあげよう、と事あるごとに声をかけた。
そしてヨウコもそんなオリエを慕った。
「いい子ぶってるくせに、実はヤリマン」
と学校裏サイトでオリエが中傷された時も、疑心暗鬼となっているオリエの傍らにいつもいてくれた。
いつしか二人はお互いの家を行き来するほど親密になっていた。
 「ヨウコちゃん、二宮先生のこと、どう思う?」
 「いい先生だと思うよ。去年に比べたらずっと…」
 「ああ、転勤した大木先生でしょ。最悪だったよね。やる気ないし、臭いし。先生たち、みんな隠してるけど、
なんか問題があって学校にいられなくなったっていう噂だよね」
 「そうなの?でも、誰だって多かれ少なかれ問題ってあるから、もしそうなら、なんか可哀想…」
 「ヨウコちゃんは優しいね」
 「別に、そんなつもりじゃ…。でも、オリエちゃんだって、問題になりそうな秘密の一つくらいあるでしょ」
 「うーん…ある、かな」
 「なに?教えて」
 「えー、いえないよ」
 「教えてったら」
 「また今度、ね」
 廊下はホームルームを終えた生徒たちでごった返している。二人は礼儀正しくお辞儀してから職員室に入り、
デスクでお茶をすすっているA組の担任で学年主任の木下に二宮の所在を尋ねた。
 「え?二宮先生、ホームルーム行ってないの?そういえば六時間目のB組の授業も勝手に放り出したって
さっき教頭先生が怒ってたけど。クラスでなんかあったのか?」
 「さあ、朝から来てない人や、途中、中抜けした馬鹿野郎もいるけど、特に変なことはなかったと思うけど…」
 「とりあえず私が行こう。二宮先生もいい先生なんだけど、時々、暴走するからなあ。でもまあ、君たちの
ような生徒がいるから、二宮先生も一生懸命にもなれるんだろうな。僕なんか最近、クラスのやつらに対して
めっきり醒めちゃって。あっいや、うそ、うそ、行こうっか」
 会話をしている木下とオリエの少し後ろを、ヨウコは微笑みながら続いた。
 「おい、見ろ、あいつ。無表情のまま口だけ笑ってるよ。やっべ、コワッ」

               ※

 「どう?上手くいった」
 「完璧だよ。もうバレない」
 「影からの指令通り、『イジメ自殺偽装作戦』だよ。最後だからってハッパを決めた後、ラリったところを
肩車したんだ。あいつ、ヘラヘラ笑いながら、俺の首にまとまわりついてやがった。そんで、こいつが椅子に
昇って紐の輪っかを『タイホ~』なんてアイツの首にかけた瞬間、俺がサッとしゃがみ込んだらジ・エンド。
どんなにもがいたって体重と重力には勝てね~。すぐに動かなくなったよ。ナイフとかで人殺しをする奴らって
知恵がないんだってさ。んなの捕まるに決まってんからな。悩み多き中学生が首を吊ったら、まず犯罪だ
なんて思われない。まず疑われるのはイジメでしょう?
でも学校や教育委員会なんて遺書がなきゃ認めないし、仮にイジメがあったなんてことになっても、結局は
加害者の教育とかなんとかわけわかんない話になって無罪放免。でも、あいつが俺たちのハッパ密売のこと、
親や教師にすべて話すっていったときはマジで焦ったよ。結構、大々的にやってたし、バレたら俺たちの将来
メチャメチャだったんだぜ。勘弁してほしいよ」
 「でも、まだアキラの部屋に『あれ』、あるでしょ?大丈夫?」
 「大丈夫。仮に足がついても大麻取締法って吸引だけだったら罰せられないって影が言ってたよ。栽培したり、
売ったりしたら捕まるらしいけど。だから結局、全部、あいつのせい。それに、警察も死んだ奴のことをそれ
以上詮索しない。もし詮索するとしたら入手ルートだけ。ほら、ずっと前に死んだミュージシャンだって、死んだ
時、覚せい剤かなんかやってたって話じゃん。でも、それで終わり。
追悼CDもバカ売れ。死んだ奴には優しいクニなんだよ。武士の情けって奴。それに入手ルートっていったって、
どこでも手に入る世の中じゃん。特定なんてできっこないさ」
 「私は流してただけだからよくわからないけど、あの種、どうやって手に入れたの?簡単にって言うけど、
私、そんなの中学生に売ってくれるって人に会ったことないよ。クラブとかに行けば手に入るって言うけど、
そんなところ、親、うるさくて行けないし。西中の先輩かなんかからのルートだったら、あんたたちも足が
付く可能性があるんじゃない?」
 「大丈夫。入手なんて本当に簡単。ネットなんだよ。まあ、これも影に教えてもらったんだけど。サヨコ、
ちょっと携帯出してみて。あんがと。んで、インターネットにして、そう。そしたらポータル、まあ、ヤフーで
いいよ。OK?んで、『大麻 種 販売』って入力して検索してみてよ」
 「う…ん、うっウソ!一九四件もヒットしたよ」
 「びっくりだよな。何なら一つサイト開けてみなよ。足付く心配ないって安心するだろうから」
 「じゃあ、これ!

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 マジ、すご過ぎ。でも、発芽させないで下さいとかって、このサイトで栽培キットまで売ってんじゃん!
まさになんでもありの世界だね。これは足付く心配はないわ。仮にこの業者がパクられても、送り先はアキラだったしね。」
 「大人ってバカだよな。非合法に簡単にアクセスできる道具を、便利だから、今はみんな持ってるから、とかいって
俺たちに買ってくれるんだから。殺人者にピストルを差し出しているのと同じだよ」
 「アキラとあなたたちの関係は平気?結構、あの家にタムロしてたじゃない?私はアキラが全部バラすとか
わけわかんないことを言うから、昨日の夜、一応、保険かけて担任にメールしといたんだ。相談があるって、ね。
大麻のことが明るみに出ても、アキラがやってることを知って、どうしていいかわからなくて…なんてか細い声で
相談したら、うちの熱血担任はコロッといくから。あいつ、私とアキラ、付き合ってると思ってるんだよ。
大人ってホント、単純。一緒にいれば付き合ってるって、いまだ感覚は明治だね。そりゃあ、ハッパでおかしくなって
寝たことはあるけど、それはあなたたちともそうでしょ?
密売の窓口ってだけだったんだけどね。私たちは感情じゃなく利益で繋がる。先生たちもそろそろその辺のところ、
理解できないのかなあ」
 「その節はお世話になりました。とても気持ち良かったです。ハハハ。でも、ま、その通り。
俺ら西中グループでも実は布石は打ってあるんだ。金曜日に市内中学校の生徒指導の先生たちの合同見回りが
あったんだけど、大見って教師に情報流してもらって、あ、こっちからはハッパを流してるんだけど、んで、稲北の
ダイヤってゲーセンでわざと補導されて、そんとき、なんていったっけ?モリヤ?お前んとこの指導部の。
あいつに、俺らのことをかまってる時間があるなら、大宮をなんとかしたらっていってやったんだ。
つながりがバレてもサヨコ、お前と同じで、友人を心配する善良な生徒の一丁あがり!パッと見、俺ら、今どきの
普通の中学生だし、挨拶もいいし。近所の人に怪しまれることもないでしょ。調子に乗って金髪とかにしてる
奴は不自由だよな、っていうかバカなんだよ」
 「ちょっと、大見って先生にハッパ流してるの?それはヤバいんじゃない?」
 「教師の弱みを握るくらい、おいしいものはないよ。前に飯につれてってもらったときに仕込んだんだ。
しっかし、先生たちって、他の教師が手を余している俺らみたいな生徒には甘いよな。たぶん俺らを手の内に
入れたら、その先生は指導力がある、なんて単純に評価されちゃうからなんだろうけど。
大見もファミレスに俺らを連れてって、嬉しそうに昔の武勇伝を語りながら、お前らの気持ちもわかるんだ~なんて
言ってさ。笑いを堪えるのに必死だったよ。んで、あいつがトイレに立った隙に、あいつのセブンスターに、
ハッパ詰め替えた『スペシャル』を一本、忍ばせたんだ。公衆の面前で教師が大麻所持だよ?言い訳できないでしょ?
騒いだら一発、チョウカイメン!理由のいかんを問わず、ね。
先生って可もなく不可もない生き方してこなきゃ、ならないし、できないから、ピンチの時ってもろいんだよ。
『スペシャル』を吸いながら、『なんか味が変だぞ』、なんていうから教えてやったの。そしたら固まってたよ。
その日から、大見は俺らの味方。っていうか、手下?彼に指導力があるんじゃなく、俺らに利用力があんの。
そこら辺、わかるかな?」
 「信じられない。とんでもないよ、あなたたち」
 「昔の人はいいました。毒を食らわば皿まで。皿を残すから、またその皿に毒を盛られちゃうんだよ」
 「なるほど。学校の授業よりははるかに説得力があるね。ね。そろそろ、行ったほうがいいよ。救急車、呼ぶんじゃない?
大麻と栽培キットをきれいに片付けた後に、ね」
 「んじゃ、俺ら、消えるよ。さっそく新しい栽培者を探さなきゃ。親があまり家にいない奴。共働き万歳!
働く女性は神様です」
 「でも、今度はもっと図々しい奴にしてね」

                            ※

 自分のクラスの生徒が天井からぶら下がっている。そして、散らかった部屋には灰皿、吸がら、そして…水パイプに
大麻。以前、家庭訪問に来た時とはまったく違う部屋。わずか数ヶ月でこんなにも変わってしまったのだろうか。
いや、違う。所詮、僕は表面しか見ていなかったんだ。文部科学省や教育委員会のお偉いさんと一緒だ。ハハハ。
 よく、役人たちは「先生方は本当に頑張っている。ほとんどの学校、先生はしっかりやっている」なんて、言ってる
けど、だったら、これだけ学校で事件が起きるわけがないだろ?
 先日、うちの学校にも教育委員会の委員さんが視察に来たけど、その前々日の放課後、緊急の職員会議が招集されたよ。
刑事物のチェック、掃除の徹底、生徒たちの服装指導、そして、どの教師の授業に校長が案内するかまで話しあったっけ。
三年生の不良グループに不登校指導までしてね。いつもは金髪もピアスも何も言わないのにさ。そりゃあ「いい学校
だtった」ってなるだろう。当然だ。でも、それは僕も同じ。何にもわかっちゃいない。それなのにわかったふりを
して、理解しているふりをして、この子は大丈夫、この子は心配だなんて上辺の判断を繰り返してきた。
一人ひとりと本音で向き合える時間なんて現実にはほとんどないのにさ。なにがなんだか、もうわからない。
わからない。わからない。わからない。わからない。わかりたくもない。

 「センセイ、ごめんね。僕、馬鹿だったよ」
 「なにいってんだ。先生のほうが馬鹿だ。確かに最近の様子、心配してたけど、でも、お前のことだから
大丈夫だと思ってた。勝手に思ってたんだ」
 「知ってるよ。今日も昼休みにトオルを呼んで話を聞いてくれただろ?知ってるよ、見てたから」
 「見てた?ああ、そうか。昼休みには、もうお前はこの世にいなかったのか。それでも学校に来たんだな。
でも、何で大麻なんて、薬物になんて手を出したんだ」
 「手を出したくなんかなかったよ。でも、付き合いっていうのかな?僕らの世界は、大人の世界以上に『断れないこと』
が多いんだよ。断ったら、こんな存在、簡単に消されてしまう。教室からも、部活からも、塾からも、そしてこの社会
からも、今の僕みたいに、ね。大人たちは誰も、僕らを守れない」
 「僕は守りたい。みんなの未来を守りたいって本気で思ってきた。それは嘘じゃない。でも、もう…わからなく
なっちゃったよ」
 「先生は必死だったよ。でも、必死だったら能力が足りないのに東大に入れる?必死だったら、実力がなくても
プロのスポーツ選手になれる?なれないよね。それと同じ。どんなに大人が必死になっても、僕らを守れない
時代になってしまったんだ。僕らが、ツールを、大人を介することなく自在に社会情報にアクセスできるツールを
手にしてしまったあの日から、ね」
 「携帯電話のことか?」

 白昼夢でも見ているのだろうか?
 天井からぶら下がっているアキラがしきりに僕に語りかけてくる。僕の心の質問にも答えてくれる。
アキラは確かに死んでいる。もしかしたら僕も死んだのだろうか?それなら会話が成立するのも頷ける。
ああ、僕は死んだんだ。
 「先生…」
 ドクン。不意に背後からかけられた声に反応し、心臓が跳ねた。死んでなんかいない。僕は生きている。
振り返ると、アキラの母親が不安そうに僕を見つめて立っていた。目が合うと、彼女は弱弱しく再び僕に
しがみついてきた。
 僕にしがみつく彼女を優しく引き離した。そして…不思議そうに僕の顔を見上げる彼女の唇にそっと唇を
重ねた。もう、なにもかもわからない。ならば、わかることに縋ればいい。
ここにきれいな女がいる。僕を頼りにしがみつく女がいる。僕らは激しくお互いの唇をむさぼった。
限界まで追い詰められた生命のその先を探求するために絡み合った。天井からぶら下がるアキラに、充満する
香りに酔いしれながら…。
 
                 ※

 どのくらい時が流れたのだろうか。僕らはカーペットの上で放心していた。このまま消滅してしまえたら
どんなに楽だろう、彼女が僕の耳元で呟いたとき、ようやく僕は少しだけ我に返った。
 「とにかくアキラをこのままにしておくわけにはいかないよ。まずは、救急車と警察に連絡しないと」
 「うん、でも、『あれ』はどうするの?私、まったく知らなかったけど、でも保護者として私も罰せられるの?」
 「それはわからない。でも、お母さんがやっていたわけではないでしょう?」
 「お母さんなんて呼ばないで。お願い。もう壊れそうなの!」
 「…うちの学校の生徒が大麻を吸っていたなんて、学校を揺るがす大事件になるよ。ました、部屋で栽培まで
していたんだから、きっと他の生徒の手にも渡ってる。僕は教育者として、その現実と向き合わなきゃならない。
容易な気持ちで薬物に手を出してしまった子供たちに、それがどんなことなのか気付かせてあげなきゃならない。
とはいえ、これは僕一人の判断で処理できることじゃない。まずは、学校に相談しなきゃ」
 ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。着信が二十三件、学校からだ。
リダイヤルボタンを押した。アキラの母親は僕のあいている手に指をからませてきた。その指は白い蛇のように
見えた。
 「もしもし、横谷さんですか?二宮ですが。教頭か校長に代わってください」
 「二宮先生、今、どこにいるんですか?さっきから何度も携帯にかけたんですよ。みんな心配しています」
 「すみません、ところで、今、何時ですか?」
 「夕方の四時前です。一体、何をやっているんですか?今、校長先生に繋ぎますからね」
横谷の甲高い声が、電話の保留音に切り替わった。僕が学校を飛び出したのが二時。この家に来たのが二時半前。
まだ、それしか時間が経っていなかったのは唯一の救いのように思えた。
 「二宮くんかね。一体、君は、何を考えているんだ!今、どこにいるんだね」
 校長は怒っていない。声でわかる。校長は怒っているんじゃなく、面倒臭がっているんだ。
校長である自分の保身だけを案じているのだ。来年三月の定年退職まで教育委員会のいう事を聞いて平穏に過ごし、
そして区の図書館や青少年センターに天下り。いや、場合によっては教育委員にだってなれる。
そして非常勤で月三十万の給料ゲットだ。管理職を目指す連中は、それを目標につまらない仕事に精を出す。
否定するつもりはない。どんなものでも目標は目標だ。でも、校長さん、それもはかなく消えそうですよ。
今度ばかりはアウトです。僕は、アキラの家で起こっている一部始終を校長に話した。
 「ま、待て、とにかく待ちなさい。警察に連絡するのも待ちなさい。ああああああああ、考えがまとまらない。
少し時間をくれ。教頭先生と主任と相談して、折り返し、こちらから連絡する。そこで待っていてください。
あっ、それから、君が大宮の家に行こうとしたとき、僕は止めなかったよ。止めなかったからね。」
 「アキラの死体の前で、電話を待ってますよ」
 皮肉を込めて僕がそういい終わる前に、電話が切れた。
 アキラの母親は不安そうに僕を見つめる。僕は黙って彼女の肩を抱き寄せた。
 気配を感じて視線を上げると、天井からぶら下がるアキラがかすかに揺れているようにも見えた。
怖かったから、また唇を重ねた。歯槽膿漏の匂いがした。

                    ※

 「二宮先生、教頭の佐々木です。今、校長と主任と指導部で話し合ったのですが、まず、大麻は片付けて、その上で
救急車を呼んでください。これは大宮一人の問題ではありません。おそらく本校の他の生徒も吸引に関わっているで
しょう。今、警察が入ったら、その生徒たちは全員、地下に潜ってしまいます。ですから、今はその存在を知られる
わけにはいかないのです。先日も、大学のラグビー部で同じような問題がありましたが、結局、真相はまだうやむやな
ままです。もしかしたら、部の内外を問わず、相当数の学生が関わっているかも知れないのに、です。
先生の正義感や熱心さはわかります。私たちは本当は先生を心から評価してるんです。とにかく二宮先生、
指示に従ってください。後のことは、学校に帰ってきてから相談しましょう」
 「おっしゃることは、わかります。僕もあの報道を見ながら、内心、忸怩たる思いでしたから。氷山の一角だけで
終わりにするわけにはいきません。今回は指示に従います」
 電話を切って、フッと思った。どうしてだろう?僕も、アキラの母親も、そして、校長も教頭も、アキラがどうして
自殺したのか、その理由についての話は誰からも出てこない。話しの中心は大麻…。
結局、教育は『子供たちのため』にあるのではなく、『大人たちのため』にあるのかも知れない。
悔しそうな顔で天井からぶら下がっているアキラがそう訴えてきても、僕には反論することができないだろう。
 アキラの母親と大麻を片付けた後、僕らは救急車を呼び、警察に連絡した。
 アキラの母親は救急車に同乗して病院に行った。僕は通報者として、担任として警察に行かなければならない。
車に戻ると、サヨコは助手席でかわいらしい顔で寝息を立てていた。少しだけ、ほんの少しだけ力が湧いた。
 アキラが自殺したことを話すと、彼女は僕にしがみついて、「もっと早く先生に話していたら…」と叫びながら
泣いた。僕も涙が止まらなかった。
 事情聴取を終え、自宅に戻ったのは午前零時を過ぎていた。教師を辞めよう、そんな思いがフッと脳裏をかすめた。

                  ※

 天井からぶら下がっているアキラの残像が瞼の裏に焼き付いて離れない。ウィスキーをストレートで呷った。
でも、呷れば呷るほど、アキラの残像がよりリアルに襲い掛かってくる。
 アキラの母親の唇を思い出してみた。無駄だった。部屋に充満していた糞尿の香りに甘美な記憶は覆われて
しまったようだ。泣いていたサヨコのことを思った。すると、「今僕が頑張らなければ」と素直に思えた。
生徒たちがいれば、僕は戦える。彼らを守らなくては…そう自分自身に言い聞かせることで、かろうじて
常軌を保った。
 携帯電話の着信音が、静まり返っている部屋に大音量でこだました。緊急連絡に気付くように、マナーモードを
解除していたのだ。まるで縋るように携帯を開くと、メール着信が二件。アキラの母親、そして『あいあい』からだった。
僕は『あいあい』からのメールだけを開いた。
 
 先生、私、変な夢を見て起きてしまったの。先生の夢。先生がとても苦しんでいて。だから私、助けなきゃって。
先生、何かありましたか?ただの夢なら安心です。返信いりません。でも、同じ空の下で、そうやって想っている人間が
いるってこと、知っていてくださいね。

 なぜだかわからない。メールを見ながら、涙が出た。ずっと一人で生きてきた。大学四年生のとき、結婚を誓い合って
いた彼女が突然、僕の目の前から姿を消してから…。
 あの時、彼女は妊娠五ヶ月。教員採用も内定し、四月からは家族とともに新生活をスタートできると信じてた。
女性を信じられなくなった。子供を守るという母親も信じられなくなった。女たちの微笑みも、優しさも、すべて
嘘だと思った。
 でも、どうしてだろう。『あいあい』から差し出された、メールという名の優しい手に、僕はたまらなく触れたく
なった。そして、気がつくと僕は返信ボタンをクリックしていた。

 >メールありがとう。君は超能力でも使えるのかい?実は僕の心は壊れそうなんだ。今日、僕の大切にしてきた
ものが突然、僕の目の前から消えてしまった。僕はどうしたらいい。僕はもう前に進めないよ。

 詳しいことなんて書けない。でも、抱えている率直な思いを『あいあい』に向けて綴って返信した。
まるで子供が母に縋るような、そんな思いで…。

 >私にできることはありませんか?あなたのためなら、なんだってできる。疑うかもしれないけど、でも、私、
心からそう思えるの。自分自身でも不思議。遠慮なく、私に言って。私に甘えて…。

 >君はまるで、母のようだ。昔、麻疹で寝込んでいた時、ずっと僕の傍らで、震える僕を抱きしめてくれた母を
思い出すよ

 >そんな、たいした存在じゃありません。でも、この思いは確かなのです。これまで、あなたはずっと
メールの返信、してくれなかった。でも、私はずっとあなたの背中を見ていたの。考えてみて。
お互い正面で向き合ったなら、二人は世界で一番近い人。でも、どんなにそばにいても、お互いがお互いに
背中を向けていたら、それは地球一周しなきゃ正面から出会えない世界で一番遠い人。だからあなたが私に
背中を向けていても、私はずっとあなたの方を見ていようと思ったの。この思いがたとえ成就しなくても、
世界で一番遠い他人にだけはなりたくなかったから

>僕もその話、生徒たちにしたことがあるよ。「僕はどんなに君たちが僕に背中を向けても、僕は背中を向けない」って。
でも、まさか、自分がそんな風に言ってもらえるなんて…。ありがとう。今、僕は君のほうを向いている。
君は世界で一番近い人だね。

>なら、抱きしめられるね。背中をじゃなく、正面から。勇気を持って、私の思いを送ります。

 『あいあい』からのメールには画像が添付されていた。すぐにそれをクリックしてみた。
 心臓が高鳴った。なんと、携帯電話の画面に、胸がアップで映し出されたのだ。大きすぎもせず、小さすぎもしない
乳首は品よく隆起している。
 アキラの残像が一瞬で脳裏から消えた。
 中枢神経に電流が走る。僕はひどく興奮していた。

 >君の優しさ…なんて言ったらいいんだろう。今すぐ飛んでいって君を抱き締めたい。ありがとう。
どんな美辞麗句より、優しく僕を包んでくれたよ。感激した。
 >…ドキドキしています。こんなこと、したことないから。でも、こないだ読んだ本に、壊れかけた人を救えるのは
女性の胸しかないって書いてあって…。どうか、気を悪くしないで下さい。今の私にできるのは、これくらいのことだから。

 僕の理性のリミッターは完全に解除されてしまったようだ。あんなことがあったばかりなのに、僕の下半身は隆起して
いた。
 男には『種族存続』の本能があり、生命の危機を感じた時、なんとしてでも子孫を残さなければと、本能が生殖中枢を
刺激するのだという。確かに徹夜明けの朝は普通じゃない。その意味では、僕の精神はすでに限界にあるのだろう。
 いや、違う。彼女に、彼女の優しさに触発されているのだ。僕は彼女のような女が欲しかった。
彼女のような女を僕のものにしたい。そうだ、それだ。

 >興奮している。

 たった一行のメールを『あいあい』に送った。相手の出方を探るためだ。
 こういうとき長いメールを送ると、墓穴を掘ってしまう危険がある。例えば、久しぶりに会いたい女性に、いや、
正直に言うと、久しぶりに会って、食事して、セックスしたいという女性にメールをするとき、相手が恋愛しているのか、
今、どんな気持ちで、どんな生活をしているのかもわからないとき。
そんなときは、「フッと君のことを考えていた。どうしてる?」なんて短文で、できるだけ抽象的に、でもさりげなく
想いを滲ませたメールを送るのがベストだ。ダメならダメで、それらしいドライな返事がくるだけだから、こっちが
傷つくことはない。君のことを考えてたってだけだから、言い訳はいくらでもできるしね。
 「興奮している」ってメールもその類だ。
玉砕しても、言い訳はいくらでも可能。
僕は数学ではなく、国語の先生になるべきだったのかな。
 しかし、いつもそうだが、こういうメールを送った後は時間感覚が完全に狂う。数分しか経っていないのに、返信が
遅い、とたまらなくイライラする。携帯の時計を見ると、送信から八分。返信がない。しくじったか!
 十分過ぎても返信が来なければ、誤魔化しのメールをしよう。
 「悲しくて、辛くて、それが神経を高ぶらせるのか、興奮して眠れない。でも、君の優しさで少しだけ
落ち着いてきました。ありがとう」
 これでOKだ。ただ、忘れてはならないのは、誤魔化しの返信を送る前に、念の為、メールセンター問い合わせに
アクセスすることだ。返信が遅いからって誤魔化しメールを送ったら、実はセンターに相手からのメールが届いていて、
結局、会話がかみ合わなくなってチャンスを逃してしまったことが以前にもあったしね。
 センターにメールは届いていなかった。「興奮」じゃなくて「ドキドキ」にしておいた方がよかったかな?
少しだけ後悔しながら、返信クリックをした。
 すると同時に『あいあい』からのメール着信の知らせが形態のディスプレーに映し出された。よかった。
間一髪セーフ。
 しかしメールを開くのはドキドキする。『あいあい』に引かれてしまっていたら最悪だ。さあ、どっちに転ぶか。
意を決して受信メールを開封した。

 >そんな風に思ってくれるなんて、勇気を出した甲斐がありました。でも本当に私なんかで興奮してくれているの。

 ワオ!最高の返信だ。僕はついてる。そう思った瞬間、アキラの残像が再び浮かび上がってきた。
 そうだ、ついてる訳がない。今日は本当に人生最悪の日だった。でも、人生の運、不運は長い目で見れば必ず
帳尻が合うって誰かが言ってたっけ。
 きっと『あいあい』は神様が僕の人生最大の不運に対する帳尻合わせに送ってくれた女神なんだ。
せっかくだから堪能しよう。神様、どうもありがとう。
 僕は嬉々として『あいあい』に返信した。

 >もちろんだよ。近いのに遠い。遠いのに近い。こんな状態のとき想像力が一番働くんだ。お願いだ、
もっと送ってほしい。

 ここまでくればもう遠慮なんかいらない。

 >あなたと同じように、私もあなたを感じたい。私にも興奮を下さい。恥ずかしい…。

 おお、やる気マンマンだね。
 このとき既に、僕は完全にバーチャル世界の住人となっていた。
 現実なのか、仮想なのか、そんな線引きは傷ついた真夜中には必要ない。アキラのことは忘れて今夜はただ溺れよう。
 僕はスウェットを下ろし、隆起したペニスを携帯カメラで撮影し、送った。
 今度は、君の下半身も送ってほしいというメッセージを添えて。
                                 (つづく)

 

 

最終更新:2008年03月31日 14:21