チベット仏教とモンゴル王朝、東トルキスタンのホジャについて


 ウイグルの歴史については、ウイグルの歴史で述べているが、ここでは、チベット仏教を介してつながるチベット、モンゴルについてを特に取り上げる。更に東トルキスタンについては、モンゴル帝国以降ジュンガル帝国までこの地を統治したモンゴル系王朝と、実権を握っていたホージャについて述べたい。

ダライ・ラマの称号の誕生
 チベット仏教は、その名称にチベットを冠することから、チベット人の民族宗教のようにイメージされがちであるが、チベット~モンゴル~満州と、広範囲の多民族に信仰されている世界宗教である。そして中世~近代までの中央アジアから東アジアの歴史に、このチベット仏教が影響し、作用したことは非常に大きい。それはイスラム教文化圏である東トルキスタンも同様である。

 チベット政府の元首であり、チベット仏教界の最上位に位置するダライ・ラマが、現在のように、政教両面での最高指導者となったのは、モンゴル人政権によるところが大きい。
 モンゴル帝国の第5代ハーンであるフビライは、サキャ派のチベット仏教僧のパクパを招請し、首都大都(現在の北京)にたくさんの寺院を建立した。これが13世紀のことであるから、チベット仏教とモンゴルとの関わりは早くからあったといえる。この当時は支配者の権力を支える宗教としての導入であったため、民衆への強制的な改宗などは行われず、本格的にモンゴル人の中にチベット仏教が浸透するのは16世紀後半になる。
 元朝が滅亡し、大都を放棄して北方へ移った後、モンゴルはいくつもの集団が分裂と統合を繰り返した。これをまとめあげて、モンゴルの中興の祖と称されるのがチンギス・ハンの直系の子孫であるダヤン・ハーンである。集団に分かれ衰退していたモンゴルをまとめたのがダヤン・ハーンであれば、争乱によって衰退していたモンゴル人のチベット仏教信仰を復活させたのが、アルタン・ハーンである。
 アルタン・ハーンはダヤン・ハーンの孫であり、1551年に正当なハーン位に推戴された。翌年よりオイラト(西モンゴル)、チベット、現在のカザフスタンに遠征し、明とも和議を結んでいる。チベットに進出した際に、チベット仏教に帰依し、そしてゲルク派のソナム・ギャムツォを師と仰ぎ、モンゴル語の称号「ダライ・ラマ」を贈った。チベット語のギャムツォは「海」という意味であり、モンゴル語では「ダライ」という。これと「師」を意味するチベット語の「ラマ」を組み合わせた称号が、ダライ・ラマである。最初にこの称号を用いたのはソナム・ギャムツォであるが、ゲルク派は高僧の転生相続制を取り入れていることから、化身僧である彼は、その初代から数えてダライ・ラマ3世とされた。
 アルタン・ハーンとダライ・ラマ3世の間には、施主と帰依処の関係がつくられ、フビライとパクパの再来とみなされた。さらに、アルタン・ハーンの曾孫はダライ・ラマ4世に認定されており、チベット人以外では唯一のモンゴル人ダライ・ラマである。

ダライ・ラマの権威の確立
 チベット仏教において、ゲルク派とカルマ・カギュ派の抗争が激しくなったとき、その施主であるモンゴル領主達の間でも争いが起こった。このときにダライ・ラマの熱心な信者であるオイラトの一部族であるホショト部のグシ・ハーンが1637年から1642年にかけて中央チベット、アムド、カムなどチベットの大部分を制圧し、中央チベットの広大な土地をダライ・ラマ領として寄進した。これにより、ダライ・ラマは、宗教の面では「ゲルク派の有力名跡」から「宗派を越えたチベット仏教界の最高権威」となり、政治面ではチベットのもっとも肥沃で人口稠密なダライ・ラマ領を掌握し、グシ・ハーン一族及びその従属者への領有権の認定にたずさわるなど、宗教面でも世俗面でもチベット全域の権威と権限を行使する唯一の地位となった。それと同時に、グシ・ハーンはチンギスの男系子孫では無いにも関わらず、ハーンの称号をダライ・ラマから授けられるという手続きを経て、ハーンを名乗るようになった。
 モンゴルではハーンの位はチンギス・ハンの男系子孫によって継承されるべきという「チンギス統原理」があった。この原則を曲げ、チンギスの男系子孫ではない者がハーンを名乗ったことが過去にあるが、モンゴルの人々から大きな反発を招き、殺害されている。このようにチベット仏教の宗教的な権威によって、ハーンを名乗ることが可能となったのである。
 なお、オイラトとは西モンゴル族ともいわれ、東モンゴル族(ハルハなど)との抗争があった後に、オイラトとして独立したのであるが、ここではその詳細は割愛する。なお、現在「新疆ウイグル自治区」に住む「モンゴル族」はオイラトであり、彼らはモンゴル共和国や内モンゴル自治区のモンゴル族とは別の独自の文字「トド文字」を使っている。

モンゴル帝国以降の東トルキスタンの諸王朝
 東トルキスタンの地域をテュルク化していく主体となった、ウイグル人・テュルク系民族王朝である天山ウイグル王国とカラ・ハン朝は13世紀に入るとモンゴル帝国に併合された。ただしウイグル人は、モンゴル帝国に対しあえて武力的抵抗をせず、彼らの頭脳として働くことを選んだといえる。ウイグル人は「モンゴル統治の教師」と言われる程に、その経験と知識を存分に用い、さらに世界各地に出向いて貿易に従事し、ウイグル商人として名を馳せていった。
 モンゴル帝国はその後分裂し、この地域は後継国であるチャガタイ・ハン国が支配した。チャガタイ・ハン国のモンゴル人のうち、西部の人々は都市定住化し、言語的にテュルク化、イスラム教の受容が進み、自らをチャガタイと名乗るようになった。これに対し東部の草原地帯の人々は、純粋な遊牧生活を営み、モンゴルの伝統的な生活を続け、自らをモグール(モンゴル)と名乗った。このような東西の分裂傾向と混乱とを経て、1340年チャガタイ・ハン国はパミール高原を境として東西に分裂した。
 東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のハーンであるトゥグルク・ティムールは東トルキスタンを統一し、1360年には一時的ではあるがチャガタイ・ハン国を再統一した。しかし西チャガタイ・ハン国でティムールが離反し、これに敗れその下に服属することになった。
 ティムールはチンギス・ハンの築き上げた世界帝国を理想としていたと言われ、外に向けて遠征を繰り返し、中央アジアに強勢な大帝国、ティムール朝を築き上げた。
 東トルキスタンのモグーリスタン・ハン国はティムール朝に服属しながらも天山南路東半部に勢力を維持し続けた。尚、この時にタリム盆地全域のイスラム化が完成した。
 1500年、テュルク系遊牧集団ウズベク族が北方から進入してきたため、ティムール朝が滅亡した。これと同時期の東トルキスタンでは、テュルク系遊牧集団、カザフとキルギスの圧力により、モグーリスタン・ハン国の支配地域は次第に南下していった。さらにマンスールの治世には天山北路より北のジュンガル盆地地域はほとんど放棄され、ここはカザフ人とキルギス人が遊牧する地域となった。またマンスールの弟サイードが1514年にカシュガルを占拠し、ヤルカンド・ハン国を建てた。こうしてタリム盆地は、東にモグーリスタン・ハン国、西にヤルカンド・ハン国が併存したが、後にヤルカンド・ハン国が全域を支配するようになり、1679年までその支配は続いた。
 このようにして、それまでの北部草原地帯での暮らしから南部オアシス地域への移住の結果、モグールの支配者層もまた、定住化、テュルク化、イスラム化していった。
 タリム盆地を支配したヤルカンド・ハン国の名目上の君主は、チャガタイの正裔であるモグーリスタン・ハン家であり、ここでもチンギス統原理が重視された。しかし、諸都市の実権はホージャと呼ばれるイスラム宗教貴族が握っていた。ホージャとはもともとは西トルキスタンのスーフィズム(イスラム神秘主義とも訳される)のナクシュバンディー教団の職名であり、ムハンマドの子孫(のうちの庶流)を自称する人々である。彼らは東トルキスタンに移動してきた後、ヤルカンドを本拠とする黒山党(イスハーキーヤ)とカシュガルの白山党(アーファーキーヤ)とで対立を起こしていた。

ジュンガル帝国
 ジュンガルとはオイラトの一部族であり、彼らが建てた国家の本拠地は東トルキスタン北部のジュンガル盆地とイリ渓谷であった。ジュンガル帝国は「最後の遊牧帝国」と呼ばれ、この帝国を最後として、圧倒的な力を誇示していた遊牧騎馬民族は、歴史の表舞台から退くことになる。
 ジュンガル帝国3代目首領のガルダン・ハーンのときに、帝国はその支配域を大いに広げた。彼はチベット仏教の活仏(高僧の生まれ変わり)と認定され、幼少期をダライ・ラマ5世の下で過ごしていた。しかし彼の兄が殺された時に還俗して仇を討ち、更にダライ・ラマによってホンタイジの称号を受けた。
 この後にオイラト内の有力者を倒して全オイラトの支配権を握った。ダライ・ラマ5世はガルダンを強く支持し、最高位の「テンジンボショクト・ハーン」号を与えた。ガルダンはジュンガル部では最初で最後のハーンとなる。ガルダンはダライ・ラマの期待に応え、チベット仏教の守護者として戦いに臨み、東トルキスタン全域からモンゴル高原西部にいたる大遊牧帝国を築き上げた。その後、東モンゴルのハルハ部をも破ったが、ハルハ部が清に援助を求めたことで、ジュンガル帝国と清朝とが全面対決することになった。

 ガルダン・ハーンはタリム盆地を制圧した時に、ヤルカンド・ハン国の君主を退位させ、黒山党のホージャとともにイリに拉致した。そのかわりに傍系であるアブドゥッラシードを傀儡のハーンに立てて、白山党ホージャに実権を握らせた。このようにしてタリム盆地オアシス諸都市は、ジュンガル帝国に服属することとなった。
 さらにモグーリスタン・ハン家は1697年に断絶し、アパク・ホージャの孫であり、母方がハーン家の血を引くアフマドにハーン位が移った。このようにチンギスの男系子孫がハーン位を継承するという血統重視の原理は、モンゴルやオイラトではダライ・ラマの権威によっても授けられ得るものへとなったのであるが、東トルキスタンのタリム盆地では、ホージャというムハンマドの末裔へと移ることになったのである。

カシュガルのアパク・ホージャの墓廟(マザール)
 カシュガルの有名な観光地である、白山党のアパク・ホージャ・マザール(墓廟)は、中国からは「香妃墓」とも呼ばれている。観光地としても有名であり、イスラム宗教貴族ホージャが、聖俗を支配した「神聖国家」に対しては、ウイグル人の憧憬のようなものがあるのではないかと、日本人である私は思いこみ、現地や日本在住の知り合いのウイグル人に、このアパク・ホージャについてどのように思うかを尋ねてみると面白いことが分かった。
 彼らのほとんどが、アパク・ホージャは大勢の人を殺した悪い人間で、今頃は地獄で苦しんでいるだろう、とか、東トルキスタンが現在中国領となったのは、このアパク・ホージャのせいであり、ウイグル人は全員が恨みに思っているはずだと言うのである。それで後からこの理由を調べてみると、以下のことが分かった。
 その当時東トルキスタン北部を拠点としたジュンガル帝国のガルダン・ハーンに対し、1678年にダライ・ラマの親書を持って、東トルキスタンへ進行し、支配するよう薦めたのが、このアパク・ホージャのようである。白山党と黒山党が支配権をめぐり争っていたのは前述のとおりであるが、ヤルカンド・ハン国のイスマイル・ハーンの時代、彼は熱心な黒山党の支持者であり、白山党のアパク・ホージャを東トルキスタンから追放した。アパク・ホージャはチベットに逃げ込み、そこでダライ・ラマ5世に協力を依頼したということである。(ただしこの情報源は、アパク・ホージャと対立していた黒山党側の資料に残るものであり、事実かどうかの検証が必要であると思われる。)
 ともかく、ジュンガル帝国は1680年にタリム盆地地域を征服し、ヤルカンド・ハン国のハーンと、黒山党のホージャを幽閉した。そしてそれに代わってアパク・ホージャを代官としてヤルカンドに据え、支配権を持たせる代わりに莫大な貢納金を支払わせた。

 なお、清朝がジュンガル帝国を滅ぼしたのは1755年、このときにジュンガルの武将アムルサナの協力があったが、結局アムルサナは清朝に反旗を翻し、1757年には再び清朝のジュンガル掃討が行われた。このときに清軍が持ち込んだ天然痘と相まってジュンガルは壊滅した。また同時期のタリム盆地では、白山党の兄弟のホージャ(大小ホージャ)が清朝に対抗した。ジュンガルを制圧した清は1759年この地域も制圧した。大小ホージャはバダクシャン(現在のアフガニスタン北部)に逃亡したが、そこで捕えられ殺された。またその親族は全て北京へ移住させられた。こうしてジュンガル盆地(準部)とタリム盆地のイスラム地域(回部)を手に入れた清は、両部を併せて「新疆」(新しい辺境の領土)と名づけた。

 なお、白山党のホージャは、清朝に対抗するために地域のイスラム住民を扇動したが、清軍の前に戦意を喪失し、またホージャ兄弟の残酷な扱いもあったらしく、民心は離れていたという。
 清朝統治が始まって、白山党のホージャの一族は北京に送られたが、その中の一人が中国語表記の香妃であり、イパルハンという女性である。彼女は最後までウイグル人としての誇りを持ち続け、乾隆帝を拒み続けたため殺され、その遺体は故郷のカシュガルに埋葬されたとされている。ただしこの香妃の物語は諸説ある。

 このように、東トルキスタン内で宗派争いによって戦争を起こし、ジュンガル・ハンの支配を招き、それが清朝の支配につながり、そして現在の中華人民共和国の圧政下に置かれる形を作ってしまったということ、そして支配者には多大な貢納をし、民衆には重税を強い、大勢の人を殺した、つまりはアパク・ホージャは民族の敵という見方が、ウイグル人の中にはあるということのようである。とはいっても、アパク・ホージャに対してのウイグル人の評価は、地域や年代など、その背景によって様々なようであり、興味深いところである。
 なお、ヤルカンド・ハン国の滅亡の際に、白山党ホージャの一族のうち一人だけが、西トルキスタンにあるコーカンド・ハン国に逃げることができたといわれる。彼の子孫と、これを推す勢力とによって、失地回復のための聖戦が19世紀に度々起きた。これらの聖戦には、コーカンド・ハン国による後援があったといわれる。 







最終更新:2013年07月11日 21:58