【雪、乱れ散る夜に】-前編-
アルメキア王国軍総帥ゼメキスの館の応接間からは、大陸一と謳われる荘厳な王宮を望むことができる。閑静な丘に白亜の城はそびえ、地に落ちては消えるはかない運命の小雪が輪舞していた。
窓枠に手をかけ、ゼメキスの妻、エスメレーは夜の王宮をみつめていた。窓に映る彼女の表情は静穏。よく整った口が開かれさえしなければ、彫像と見紛う者もいたかもしれない。
窓枠に手をかけ、ゼメキスの妻、エスメレーは夜の王宮をみつめていた。窓に映る彼女の表情は静穏。よく整った口が開かれさえしなければ、彫像と見紛う者もいたかもしれない。
「つまり、あなたはあの人に、王の裁きを受けよとおっしゃるのですね?」
視線を城にあわせたまま、エスメレーは扉の横に直立している来訪者に尋ねた。
国民の人気は、ながく続いた北方の宿敵ノルガルドとの戦いに一応の終止符を打ったゼメキスに集中していた。アルメキア王ヘンギストにとってこれが面白かろうはずがない。あえて口に出す者こそいないものの、ゼメキスが疎まれていることは、誰もが知っていた。そこにどこからともなく、ゼメキスが反乱を企てているという噂が流れ出したのだ。王はゼメキス捕縛の命を出した。
国民の人気は、ながく続いた北方の宿敵ノルガルドとの戦いに一応の終止符を打ったゼメキスに集中していた。アルメキア王ヘンギストにとってこれが面白かろうはずがない。あえて口に出す者こそいないものの、ゼメキスが疎まれていることは、誰もが知っていた。そこにどこからともなく、ゼメキスが反乱を企てているという噂が流れ出したのだ。王はゼメキス捕縛の命を出した。
「裁かれろと言っているのではない。王の命を取り消す策が、必ずどこかにあるはずだから、それを探れと言っているのだ。本当に王家を打倒するなど、下策もいいところだ」
来訪者シュレッドは、きつい口調で語った。つい今しがた部屋に入ってきたばかりの濡れた体からは、室温で溶けた雪が湯気となって立ち昇っている。体を拭く暇もいとうほど彼は急いでいた。
ゼメキスは、王に捕縛されるよりも先に本当に反乱を起こし、王家を討とうとしている。ゼメキスと長い年月を共にした戦友である彼は、それを阻止するためにエスメレーの元を訪れているのだ。すでに騎士カドールによって王家打倒の準備は万端整っている。一刻を争う状況だった。
エスメレーは振り向き、真冬の海のような瞳でシュレッドを見つめた。シュレッドは岩をも砕く拳を持つ大陸一の拳闘士。およそ美というものからは縁遠い男であったが、エスメレーの美しさは彼の心を揺り動かした。
ゼメキスは、王に捕縛されるよりも先に本当に反乱を起こし、王家を討とうとしている。ゼメキスと長い年月を共にした戦友である彼は、それを阻止するためにエスメレーの元を訪れているのだ。すでに騎士カドールによって王家打倒の準備は万端整っている。一刻を争う状況だった。
エスメレーは振り向き、真冬の海のような瞳でシュレッドを見つめた。シュレッドは岩をも砕く拳を持つ大陸一の拳闘士。およそ美というものからは縁遠い男であったが、エスメレーの美しさは彼の心を揺り動かした。
「王にとって重要なのは、あの人が本当に反乱を計画しているかどうかではなく、あの人が反乱を計画しているように見える、ということなのです。命令の取り消しは難しいでしょう」
シュレッドは小さく呻いた。それはまさにシュレッドが心の奥で考えていたことだったのだ。彼はこの女性の前では、いくら希望的観測を並べたてて取り繕ったところで無駄なのだと悟った。
「王家が討たれれば、忠誠厚い東の国パドストーが黙っているわけがない。虎視耽々と機会を狙っている他国も動く。あいつひとりのために大陸全土が戦乱にまきこまれ、多くの血が流れるだろう。だが……」
シュレッドは、その先を口にするのを一瞬だけためらった。
「……あいつが死ねば、すべては丸く収まる」
死、という直截的な言葉を使ったシュレッドは、エスメレーの表情をうかがった。だが彼女の瞳に驚きや、とまどいを見つけることはできなかった。
「決して王の肩を持っているのではない。俺はゼメキスを尊敬している。だからこそ、間違った道を進もうとしているあいつを看過できぬのだ」
声が一段と大きくなるのを頭の片隅で自覚しながら、拳を握り締める。
「俺があいつと共に戦ってきたのは、いつか理想の国を造ることができると信じたからだ。戦乱を起こすためではない。無駄な血を流さぬために力を貸してほしい」
シュレッドは、頭を下げた。彼には、エスメレーが力を貸してくれるという成算があった。彼女はもともとノルガルドからアルメキアにおくられた人質。それをゼメキスが国王から貰い受けたのだ。戦乱となればノルガルドとの戦いは避けられないが、ノルガルドの王は彼女のただひとりの肉親、弟のヴェイナードだった。つまりシュレッドが迫っているのは、夫を取るか、弟を取るかという選択なのだ。そして彼は、この夫婦が愛し合うことによって結ばれたのではないことを知っていた。
エスメレーは沈黙を守ったまま、何も答えない。
エスメレーは沈黙を守ったまま、何も答えない。
「あなたも、弟君と戦いたくはないはずだ」
苛立ったシュレッドの言葉を耳にしたとたん、エスメレーは彼から視線をそらした。長いまつげがかすかにふるえる。彼女はあきらかに動揺していた。それは彼女が初めて垣間見せた氷の仮面の下の素顔だった。シュレッドは、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
「……わかりました」
視線を落とし、唇をかみ締めていたエスメレーは、やがて決心したように口を開いた。
「ありがたい」
シュレッドは間髪いれずに礼を言った。エスメレーの協力を得られれば、きっとゼメキスを抑えることができるはずだ。
「用意をしてまいります。ここでお待ちください」
彼女は、応接間を退室した。
ソファに腰掛け、シュレッドははやる心を抑えて待った。暖炉の薪のはぜる音だけがあたりに響いていた。
大陸の平和のために友の死を願う自分の行動が正しいのかどうか、シュレッドには判断がつきかねた。目を閉じれば、まぶたの裏には最前線で血にまみれながら戦っているゼメキスの姿が浮かんだ。彼はゼメキスの強さにあこがれていた。力だけではなく、他の追随を許さぬほどの圧倒的な統魔力、そして敵に対するためらいのなさ……。
ソファに腰掛け、シュレッドははやる心を抑えて待った。暖炉の薪のはぜる音だけがあたりに響いていた。
大陸の平和のために友の死を願う自分の行動が正しいのかどうか、シュレッドには判断がつきかねた。目を閉じれば、まぶたの裏には最前線で血にまみれながら戦っているゼメキスの姿が浮かんだ。彼はゼメキスの強さにあこがれていた。力だけではなく、他の追随を許さぬほどの圧倒的な統魔力、そして敵に対するためらいのなさ……。
扉の開く音がした。
シュレッドは目を開き、時間がないのだから急いでもらわねば困る、と言いかけ息を呑んだ。
そこに立っていたのはエスメレーではなく、黒い鎧を身にまとった不気味な四つ目の骨面の騎士。ゼメキスと共に反乱を推し進めているカドールだったのだ……。
シュレッドは目を開き、時間がないのだから急いでもらわねば困る、と言いかけ息を呑んだ。
そこに立っていたのはエスメレーではなく、黒い鎧を身にまとった不気味な四つ目の骨面の騎士。ゼメキスと共に反乱を推し進めているカドールだったのだ……。
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